礼拝メッセージ(2023年11月26日)
『 真理の霊に聞く 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 12章:12節~26節
12:ヨハネによる福音書/ 12章 12節
その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
13:ヨハネによる福音書/ 12章 13節
なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」
14:ヨハネによる福音書/ 12章 14節
イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
15:ヨハネによる福音書/ 12章 15節
「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
16:ヨハネによる福音書/ 12章 16節
弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
17:ヨハネによる福音書/ 12章 17節
イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。
18:ヨハネによる福音書/ 12章 18節
群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。
19:ヨハネによる福音書/ 12章 19節
そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
20:ヨハネによる福音書/ 12章 20節
さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21:ヨハネによる福音書/ 12章 21節
ヨハネによる福音書 12章:12節~26節(新共同訳聖書)
彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
22:ヨハネによる福音書/ 12章 22節
フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
23:ヨハネによる福音書/ 12章 23節
イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24:ヨハネによる福音書/ 12章 24節
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25:ヨハネによる福音書/ 12章 25節
自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
26:ヨハネによる福音書/ 12章 26節
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
喜びの声を挙げている群衆にとっては、自分たちが夢見るメシア、国家を成就してくれる預言者的な王、あるいはダビデやモーセのように、力をもってローマの支配下から救い出してくれるユダヤの英雄を夢見て、「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と叫んでいたのです。群衆は17イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。 18群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。「この人こそメシアなのだ 」こんな風に叫んでいたのでしょう。
19節 には、そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」と記されているのですが、この言葉は先程の群衆とは逆で、諦めのような言葉になっています。ファリサイ派の中でもイエス様を信じる者が出始めている今このとき、うかつにイエス様に手出しすれば、今度は自分たちが群衆から突き上げられて大変なことになる。そのように考えたのですが、イエス様ご自身がイスラエルの王とした宣言なのでしょうか。この後に出てくるのですが、総督ピラトの「おまえがユダヤ人の王なのか」という質問に「わたしの国は、この世には属していない。」とお答えになっています。イエス様は、王であることは認めるけれど、それは群衆が考えるようなこの世の力「武力」や「兵力」を用いて力づくで平定するような王ではない。と言っておられるのです。群衆が求めていたのは、ローマの権力から力づくで解放してくれる政治的な王をメシアとして求めていたのです。しかし、それは、神様の御計画とも、イエス様のお考えとも違うものでした。歓喜して夢中になっていた群衆は、イエス様が自分たちの描いていた政治的に解放してくれる王ではないと知った時、裏切られたような気持に襲われて「十字架につけよ」「十字架につけよ」と叫んだのです。
弟子たちは、イエス様が十字架にかかられた時初めて「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これがイエス様自身を一粒の麦と言われたのだと理解したのです。それでもまだ、十字架を通して顕わになった勝利の意味は分からなかったと思います。「十字架、神の栄光」弟子たちがこのことに気が付いたのは、おそらくは復活されたイエス様にお会いした時だったでしょう。
そして、あのペンテコステの時、天から降った聖霊を受けた弟子たちは、本当に「十字架・と復活」が「神の栄光」であるとその身に受けたのでしょう。それからの弟子たちは、なんと勇敢になって行ったでしょうか。イエス様は言っておられます。16:12「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」