礼拝メッセージ(2023年7月30日)
『 父が引き寄せてくださる 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 6章:41節~51節

06章 41節
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、

06章 42節
こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

06章 43節
イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。

06章 44節
わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。

06章 45節
預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。

06章 46節
父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。

06章 47節
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

06章 48節
わたしは命のパンである。

06章 49節
あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。

06章 50節
しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。

06章 51節
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

ヨハネによる福音書 6章:41節~51節(新共同訳)

 イエス様が、「わたしは天から降って来たパンである」と言ったので、ユダヤ人たちはイエス様の事で呟(つぶや)いて言いました。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」こうしてユダヤ人たちは、主イエス・キリストに躓きました。それは、イエス様が救い主であるとか、神の子である。と言っても、「冗談じゃない、普通の人ではないか」と疑ったからなのです。

 人々が待ち望んだのは、もっと偉大に見える人格であり、神々しい天使のようなお姿。もしかしたら力強い豪傑であり、支配者を追い出す英雄だったのかもしれません。そんな人であったなら、普通の人が近づくことなど出来なかったでしょう。しかし、最も肝心なのはこのイエス様のお姿であります。神は、御子をただの人間として、卑(いや)しく、貧しく、わたしたちと同じ肉体を持った、弱い一人の人間としてこの世にお遣わしになられたのです。お生まれになったのは家畜小屋でしたし、貧しい大工の子として幼少期を過ごしました。救いの中心である十字架は罪人の刑罰の柱です。その頭にはいばらの冠しかなく、その衣には飾りひとつありません。

 では、本当にそのように身分の低い普通の人を、わたしたちはどうして自分たちの救い主、神の子として受け入れ、信じることが出来るのでしょうか。51「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」これが、ユダヤ人たちを最も躓かせることとなりました。イエス様を食べるということは人間の肉を食らうということです。そんなことが許されるはずはありませんし、神を冒涜する以外の何ものでもなかったからです。勿論イエス様はそのような意図をもってお話になられたのではありません。

 ここにおられる人は、主の晩餐の事とお分かりになるでしょう。わたしたちも、イエス様の十字架によって裂かれた体を想い、パンを食べます。流された血潮を想ってブドウ液を飲みます。主の晩餐はイエス様の贖罪の十字架と復活を記念してこれを行いなさい。と制定されているものです。

 神が、世の人々を救うために独り子を世に遣わし、贖いの十字架で裂かれた肉と流された血潮を自分の事柄として、その身に取り入れなさい。この世のパンは肉体を生かすものであるが、わたしのパンは神の国を生きる霊の体を生かすものである。と言われるのです。

 そして最も大切なことは44節にありました。44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。「わたしが信じたから」でもなければ「わたしたちが信じたから」でもないのです。そこにあるのは神様の愛なのです。神様がひきよせてくださるのでなければ、わたしたちの信仰もイエス様の基には向かわないのです。