礼拝メッセージ(2023年9月10日)
『 わたしは世の光 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 9章:1節~7節

1:ヨハネによる福音書/ 09章 01節
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

2:ヨハネによる福音書/ 09章 02節
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

3:ヨハネによる福音書/ 09章 03節
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

4:ヨハネによる福音書/ 09章 04節
わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。

5:ヨハネによる福音書/ 09章 05節
わたしは、世にいる間、世の光である。」

6:ヨハネによる福音書/ 09章 06節
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

7:ヨハネによる福音書/ 09章 07節
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

新共同訳聖書

 

 この出来事は私たちに何を教えているのか。それは、主イエスの無償の愛の業、出来事は実に一方的に起こるということ。私たち、人間の側の努力、善い行い、また反省や悔い改め、徳を積むといったこととはまったく関係なしに、また罪を犯したからとか、とにかくまったく関係なしに、無条件にそのことは起こったということ。 そのことを主イエスは3節で宣言されておられます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」これは驚くべき言葉ではないでしょうか。弟子たちやユダヤ人たちが常識であると教えられてきた、本人や親、先祖が犯した罪の結果だという考えかたを否定する言葉でありました。そして、わたしたちに、新しい考え方を示されるのです。イエス様が言われていることは、この盲人がなぜそうなったかではなく、神が何をなそうとしておられるのかという、神の想いなのです。そうして、起こされる業が、赦しであり、共に重荷を負ってくださる神の愛なのです。そのしるしとして癒しがあります。その赦しは神の起こされる一方的な愛の出来事として、わたしたち全ての者に向いているということなのです。しかし、残念ながら私たち罪ある人間にはそのことがよく見えないのです。自分の中に生み出した価値観をもって理解しようと試みるから受け入れられないのです。


 弟子たちに言いました。「わたしたちは、わたしたちを遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。」イエス様は、十字架の時が来ることをすでにお考えであったのでしょう。多くの人が見て見ぬふりをするような気の毒な人に、第一に目を注がれるのは、他でもありません神の子イエス・キリストその人なのです。このことこそ、大きな救いではなくて何なのでしょう。今、あなたが気にしていること、心配していること、それにいち早く気が付いて憐れみの目を注がれるのは、あなたの主イエス・キリストであります。このような者にこそ、真っ先に主の光が輝くのです。「光あれ」なのです。そして、この光はこの世の誰も与えることの出来ない唯一の光なのです。わたしたちは、天地創造の折に「そこに光あれ」と言われた。神の光を浴びて生きています。
けれど、もしかしたら、まだその光をおぼろげに見ているのかもしれません。 しかし、イエス様は「わたしは世の光である。」と言われる。世の光であるイエス様の呼びかけに応ずるとき、初めてわたしたちにその光が見えてくるのではないでしょうか。わたしたちがいまだ闇の中にいて、目が見えない時に、すでにイエスはわたしたちを呼びだして下さっている。 あの盲人のいやしの業は、闇から光の中へ立たして下さるということ、見えない者から見える者へと変えて下さるということの証であった。と、思えないでしょうか。癒しは「神の業が現れるため」だったのです。神の愛が示されるため、救いが知らされるためだったのです。わたしたちは、主イエスの愛の業に生きるようにとの招きに応えようではありませんか。