礼拝メッセージ(2023年9月3日)
『 わたしの言葉にとどまる 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 8章:31節~38節

31:ヨハネによる福音書/ 08章 31節
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

32:ヨハネによる福音書/ 08章 32節
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

33:ヨハネによる福音書/ 08章 33節
すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

34:ヨハネによる福音書/ 08章 34節
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。

35:ヨハネによる福音書/ 08章 35節
奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。

36:ヨハネによる福音書/ 08章 36節
だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

37:ヨハネによる福音書/ 08章 37節
あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。

38:ヨハネによる福音書/ 08章 38節
わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

新共同訳聖書

 皆さんがよくご存じのように、信仰とは、一度信じてしまえばあとはもう一生楽に暮らしていける。財産のようなものではありません。一生これで安心だという財産がどれほどのものかわかりませんが、財産だって、安心して贅沢三昧をすればすぐになくなるのではありませんか?ましてや、財産で命を買うことなど出来ません。人間の信仰は成長するように育てなければならないものでしょう。信仰はイエス様から与えられるものに違いはないのですが、与えられた信仰を持ち続けるのには自分の力だけでなく、応答することによって与えられる聖霊の働きが不可欠なのです。信じ続ける事を求めながら、常に祈らなければ、消えたり、別なものに変わったりするのです。もし、一度信じれば一生変わらないというのなら、人間は石か、人形のようになってしまいませんか?今風に言うのであれば、聖書の一文を記憶させられたAIかUSBメモリーを差し込まれたロボットのようではないでしょうか。そこに心はないのです。


 「とどまる」という意味は、住む、続ける、又は残るという意味ですよね。それでは、キリストのうちにとどまるとは、キリストのうちに生きる、あるいはキリストのうちに残る、残り続けるという意味だと受け取ることが出来ます。人間がイエス様によって救われたとき、「従って、今や、キリストイエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」とパウロさんは言っています。(ロマ8:1)そして、永遠の命を頂けることが保障されるのです。そして、「キリストにとどまる」ことはごく少数の特別な人に与えられる特権ではありません。それはわたしたちすべてのクリスチャンに与えられた主のご命令なのです。キリストにとどまっている人たちと、とどまっていない人たちは、救われる人と救われない人に分けられるのです。


キリストにとどまることをヨハネは別な言葉で教えています。「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって神を知っていることが分かります。キリストにとどまることと、キリストを着ていることは同じ意味なのでしょうね。ヨハネは、御子と御父のうちにとどまっていることは、永遠のいのちの約束を持っていることを意味していると言います。


ですから、イエス様ご自身が、また弟子たちを通じて多くの言葉を下さったのでしょうね。聖書がこんなに厚いことも、わたしたちにとどまらせるために残してくださった。と言えるでしょう。今日を生き、明日を楽しく生きるために、とどまること、イエス様を忘れないこと、み言葉に聞くこと、祈ること、教会に来ること、礼拝を守ること、妻を愛すること、夫を愛すること、子供を愛すること、孫を愛すること、隣人を思い、愛を忘れないこと、まだあるかもしれませんが、なんでもやってみましょう。