礼拝メッセージ(2024年1月7日)
『 新しい契約 』
石井努 牧師
エレミヤ書 31章:31節~34節
31:エレミヤ書/ 31章 31節
エレミヤ書 31章:31節~34節(新共同訳聖書)
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
32:エレミヤ書/ 31章 32節
この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
33:エレミヤ書/ 31章 33節
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34:エレミヤ書/ 31章 34節
そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
神はエレミヤに臨んでこう言われました。「わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままに振る舞っている。彼らは全く役に立たない帯のようになった。人が帯を腰にしっかり着けるように、イスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかり着け、わたしは彼らをわたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし彼らは従わなかった」。エレミヤまでの時代と、現在の社会状況は全くよく似ています。
北イスラエル王国やユダ王国に見られる神の嘆きは、偶像礼拝や特権階級を作り上げ、弱い者をなお弱い立場や環境に追い込むことでありました。神はその様子をご覧になっていて、お嘆きになり、アモスやイザヤ、をお遣いになって度々警告を託されてきました。しかし、わずかにヨシュア王がこれに耳を貸しただけで人間は変わりませんでした。そこで神は人間のなすがままにされてきたのです。その結果得られたのは国の荒廃とバビロン捕囚だったわけです。
けれども慈愛に溢れる神はそんな人間に対してまたしても新たな契約を提案するのです。この様子は、へブル人への手紙の8章にパウロによって解説されています。「その日の後、神がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである」それは「神の律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書き付けよう」「神は彼らの神となって、彼らは神の民となる。」モーセに託し、民たちが答えるはずの契約は、民たちが契約を守ることだったのです。しかし、民はその契約に背を向ける罪をおかした。ならば、この「新しい契約」は、罪赦されるという現実がなければなりません。この新しい契約は、この時代から凡そ、600年後に現実のものとなりました。これは、わたしたちの罪の贖いとして差し出された独り子イエス・キリストの十字架によって現実のものとなったのです。わたしたちが今日行います主の晩餐式はこの新しい契約をしっかりと胸に刻むためです。「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とイエス・キリストが約束されたことで成立したのです。
今わたしたちは、新しい契約のその中に入れられているということです。ヨハネは書き残しています。「イエスは答えられた。はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と。ここでイエスさまは「人は、新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と言われたのではなく、「神の国を見ることはできません。」と言われます。「新しく生まれる」ことは、神がお遣わし下さったイエス・キリストを喜んで受け入れる事なのです。つまり、終末はイエス様がこの世に来られた時から、すでに始まっているということです。神の再臨のとき、やがて主イエス・キリストと会いまみえるとき、この終末は完成するのです。