礼拝メッセージ(2025年11月9日)「私を知っておられる神」詩編139編13~18節

知られている安心感

私は去年の4月に前橋市へ引っ越してきました。群馬に住むのは初めてですが、隣の埼玉には19年間住んでいたので、色々なつながりがありました。特に“きたかん”の教会の集まりには何度も参加してきたので、群馬にも知り合いが何人もいました。

埼玉を出てからは、福岡、札幌、金沢にそれぞれ4~5年ずつ住んできました。どこでもそれほど困らずに暮らしてこられたと思っていましたが、今回が一番すんなりと馴染むことができたような気がします。それには、少しは知っている場所だったということもありますが、自分のことを知っている人がいる、ということも関係していたのでしょう。

小学生の頃から知られているので、中には忘れてもらいたいような記憶もあります。それでも、いいところばかりでなく、ダメなところも含めて自分のことを知っていて、受け入れられている、ということから、安心感が生まれていたのだと思います。

神様は全てを知っておられる

私たちのことを知っているのは、周りの人たちだけではありません。神様も、私たちのことを知っておられます。いつ、どこにいるときでも、神様は共にいて、私たちのことを知っておられるのです。詩編139編の最初から読んでみましょう。

「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。」(詩編139編1~3節)

私たちは色んなことをおこなってきましたが、神様はその一つひとつを知っておられます。私たちが順調に歩んでいたことも、疲れて座っていたことも、必死に走っていたことも、つまずき倒れていたことも、すべてを知っておられます。

さらには、神様は私たちがおこなってきたことだけではなく、私たちが考えたり、感じたりしたことも知っておられます。

「わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。」(詩編139編4節)

それは神様が私たちに関心を持ち続けてこられたからです。神様ご自身の手で守り、祝福することを願って、神様は私たちの全てを知っていてくださったのです。

どこに行っても、どんなときでも

私たちはずっと同じところにいるわけではありません。引っ越すこともありますし、進学や就職、転職や退職など、生活する場所が変わることもあります。変わることは楽しみなときもありますが、不安なときもあります。そこが見知らぬ人ばかりのときには、特に不安でしょう。

神様は、私たちがどこに行っても離れないと約束しておられます。私たちがどこに行っても、神様はそこにおられました。天高く登るようなときも、地の底に降るようなときも、地の果てまで行ったとしても、神様が私たちから離れることはありませんでした。神様は私たちを見失うことなく、手を取って導いてくださいます。

また、神様はいつも私たちを見ておられます。明るい光の指すような時はもちろんのこと、真っ暗で先も周りも見えない闇のときでも、私たちを見失うことはありません。私たちからは神様のことが見えなくても、私たちが神様に目を向けていなくても、神様は見ておられます。そして私たちと喜びだけでなく、苦しみや悲しみ、孤独や不安も共にしながら、私たちと共にいてくださるのです。

生まれる前から

そんな神様は、いつから私たちのことを知り、私たちのことを見ておられたのでしょうか。私たちはそれぞれ、神様を知り、神様に目を向け始めたときがありました。神様はそのずっと前から、私たちが生まれる前から、私たちのことを知っておられました。

私たちの体は、母の胎内で組み立てられました。私たちに生命を与えてくださった神様は、母の胎内で体が造り上げられていくときから私たちのことを見ておられました。私たちのこれまでの生涯の日々は、すべて神様によって書き記されています。神様は、一人ひとりが歩んできた日々を、まるで日記に書き留めるように目を留め、覚えてこられたのです。

私は親になって9年目になりました。生まれたときからずっと近くで見てきた息子のことは、何を考えて、どんなことをするのか、わかることも多いです。日記には書いていませんが、ずっと共にいて、目を向けてきた、ということは、それだけよく知っているということです。

人にはたとえ親であっても、子どものことでわからないことはあります。でも神様は、生まれる前から、どこに行っても、どんなときでも、共にいてくださったので、私たちにはわからないことも全て知っておられるのです。

全てを知って愛する神様

それほどまでに神様が私たちのことを知ろうとしてくださるのは、私たちを愛しているからです。知るということは、神様にとって愛をもって配慮することであり、私たちを守り、祝福し、導き、助けるためなのです。

何でも知られている、というと、むしろ心配になるかもしれません。完ぺきではなく、弱さも過ちもある私たちの生涯が、すべて見られているなら、神様はどう思われるのでしょうか。

でも、安心してください。神様は私たちを「監視」しているわけではありません。「評価」するために見ているわけでもありません。もちろん、私たちが誤った道を進んでいるときには、進む道を変えるように導こうとされます。けれども、間違ったからといって、私たちから離れてしまったり、愛をなくしてしまったりすることはありません。

私たちの全てを知って、なお愛してくださるという、神様の深い愛に驚かされます。自分でも自分を受け入れられず、愛せないことがあっても、神様は愛してくださる。自分のことでも全部わかっているわけではないけれども、神様はその愛をもって私たちの全てを知っていてくださる。そんな神様だからこそ、この詩編を歌った詩人は「私のことを知ってほしい」と願ったのでしょう。

「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。
わたしを試し、悩みを知ってください。
御覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」(詩編139編23~24節)

私たちも知り、つながっていく

私たちを知っていてくれるのは神様だけではありません。これまで出会った人たちに知られる中で、私たちは生きてきました。神様のように全てを知っているわけではありませんが、自分のことを知ってくれている人、見てくれている人がいることは、大切なことです。

それは子どもを育てていくときにも言えることです。アフリカのことわざに、「一人の子を育てるには村全体が必要だ」というものがあるそうです。子どもは親だけでなく、色んな人の関わりや繋がりの中で育っていくものだ。子育ては一人や二人でできるものではなくて、たくさんの人の協力と助けが必要なものだ、という知恵が含まれたことわざだと思います。

たくさんの人が自分のことを知っている。周りのみんなが自分のことを見守っている。そんな関係の中にいれば、安心感が生まれ、喜びも悲しみも他の人と分け合いながら、育っていくことができますし、その共同体や社会を担っていく人にもなっていくでしょう。

一方で、現代の日本社会は人と人との結びつきが弱まっています。そのため、一人の子どものことを知っている人は、昔よりもずいぶんと少なくなっているでしょう。そうなると親が担うものが多くなってしまいます。

神様が私たちのことを知ってくださっているように、私たちも周りの人のこと、子どもたちのこと、あるいは自分自身のことも知っていくことは大切です。人は一人で生きるものではない、と神様はおっしゃいました。人とのつながり、関わりは、どのような時代にも必要ですし、子どもたちにも大切なものです。

だから教会は、神様が私たちのことを知っておられる、ということと、私たちもあなたのことを知り、つながっていきたいということを伝えていきます。子どもたちを見守り、関わりながら、神様がいつも共にいてくださること、神様が進むべき道へ導いてくださることを祈り続けたいと思います。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

『現代聖書註解 詩編』J.L.メイズ、日本基督教団出版局、2000年

『新共同訳 旧約聖書略解』木田献一監修、日本キリスト教団出版局、2001年

『ママの心がふわりと軽くなる子育てサプリ~佐々木正美先生とぷりっつママからの贈り物~』佐々木正美、主婦の友社、2012年

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