ともに生活し学んでいくこと

今日は私が卒業した西南学院大学神学部の受験日である。もう何年もまえのことだが緊張して受験を受けたことを思い出す。教会のみんなの祈りに送りだされて神学部で学び牧師となった。神さまに仕える者は教会という現場のなかで牧師、教職者として育っていくのである。神学部での日々もそうだった。 西南学院大学神学部 

  イエスさまは弟子たちを選ばれた。ただ選ばれただけでなくご自分のそばに置いて共に生活をされたのである(マルコ3:14)。祈りを共にされたし、人々を教えるときにもそばに置かれ、あらゆることにおいて共に過ごされたのである。近くで過ごせば人の欠点がいやでも見えてくる。イエスさまは弟子たちにあきれながら、ときには叱りながらも愛し続けられた。そこに神さまの愛があることを身をもって教えられたのである。体験はやがて血と肉となり言葉となっていった。一人の牧師が生まれるのも同じである。一人で育つのではない。教会、そして多くの人たちと共に生活しながら育っていくのである。ただ残念なことに現実にはそうなっていない。一人孤独に教会から献身していく。また人と接していくことが極端に少なくなっている現代社会。「神学生、お前たちしっかり成長しろ」と高見から見物するのでなく私たちのイエスさまが日々私たちとともにいてくださるように教会もともに生活し学んでいく姿勢と愛が必要なのだとつくづく思わされる。