礼拝メッセージ(2018年4月8日)

「教会は何を語るのか!」

コリントの信徒への手紙一:1章18節~31節

林 健一 牧師

十字架を語らないのはなぜ?
先週のイースターの日にライフラインというキリスト教放送テレビで村上宣道先生のメッセージが放映されていました。メッセージのなかで村上先生は、「キリスト教は十字架を語らなければいいと言うが教会が十字架を差し引いてしまえばもう何も残らない。教会は十字架がすべてなのです。」と力強く語っておられました。聖書には人生の問題解決など大切なことがたくさん書かれています。そのなかで一番大切なのはイエス・キリストの十字架です。では十字架にどのようなすばらしいメッセージがあるのでしょうか?

神の力である十字架
1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
イエス・キリストの十字架の言葉は、救われた私たちが救いを受ける(受け続けていく)ための神様からの力なのです。十字架は必要としない人たちにとっては愚かなものとしか見えません。しかし、「救いを受けている人々」にとっては日々、神様の力を十字架によって受けていく体験をしていくのです。世の人々はこの世の知恵や奇跡などを求めていきます。救われた私たちは十字架の言葉によってこの世の荒波を力強く進んで行くことができるのです。

神の力、神の知恵であるキリスト
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
教会は力、知恵はキリストにあると語り続けてきました。それは世の世界が求めてきた力、知恵とはおおよそかけ離れたみすぼらしく、役に立たないものでした。キリストが磔にされた十字架は弱く、愚かで、卑しく、無に等しい(1:23)ものです。しかし、十字架に磔にされているキリストにこそ、私たちの人生の問題、絶望、悲惨、痛み、死を解決することの出来る神様の知恵と力があります。

1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
人類は長年に渡り自分たちを幸いにするための知恵を求め続けてきました。しかし、いまだに答えを見出せません。それは人間が愚かで、弱い存在だからです。

キリストだけを誇る
1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
人が自分を誇ると神様のことを忘れてしまいます。コリント教会の人たちの間にあった問題(分派・分裂)はキリストの十字架を誇らないことにありました。人々はキリストの十字架を誇る代わりに他のものを探して誇るのです。

1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
神様の恵みで新しい人となったクリスチャン(クリスティアノス・キリストに属する者)は、自分自身のどんなことも決して誇りません。誇る必要がなくなったのです。ただキリストだけを誇ります。今、私が誇りとしていることはどんなことでしょうか?
十字架は世界を変える   この世では愚かに見える十字架を宣言することが、神様の力を経験する道です。十字架の福音が回復されるとき、神様の知恵と力が私たちに臨みます。