礼拝メッセージ(2019年9月1日)

『 救いの角である主イエス 』 ルカ1:67~71  牧師 林健一

 このザカリアの預言は「ほめたたえよ」という歌い出しの言葉のラテン語訳から「ベネディクトス」と呼ばれています。67節で「父ザカリアは聖霊に満たされ、預言した」とあります。彼の妻エリサベトも、41、42節でありましたが、マリアを迎えた時に「聖霊に満たされて、声高く」語りました。妻も夫も「聖霊に満たされ」ました。
 妻エリサベトに子どもが生まれるという神さまの言葉を疑ったザカリアが「聖霊に満たされ」神さまをほめたたえているのです。「聖霊に満たされ」るとはどういうことでしょうか。人間は本来、罪があるゆえに神さまと敵対する、交わることのない存在です。ですから神さまを憎みます。敵対します。いま、私たちがこうして神さまを礼拝しに来ていることはまさに奇跡であり、神さまの恵みであると言わざるを得ません。「聖霊に満たされ」るとは敵対していた神さまと和解し、親しく交わっていることの証しであります。私たちもいま「聖霊に満たされ」で人間の傲慢、愚かさ、貧しさから解放されて神さまを心から賛美する者になっていることを感謝したいと思います。

主が訪れて解放された
 ここでの「ほめたたえよ」とは命令形でなく願いや「ほめたたえられるべきである」事実を語る、そういう言葉です。では主の何が「ほめたたえられるべき」事実なのでしょうか。
 「主はその民を訪れ」(68)とあります。普通、神さまが「訪れる」という言葉は、その民を罰するために、罪を調べて報いるために神さまが訪問するという怖い意味で語る場合があります。しかし、「訪れられた」というふうに、もう起こった神さまの行為を語る場合は、反対にむしろ特別な愛の顧みを持って、慈しみと恵みを施すために来てくださったという使い方なのです。今も神さまは私たち一人一人に訪れ救いを与えてくださるお方です。
 「解放した」(68)は「贖いを行った」という滅多にない表現です。その意味は、奴隷にされている者や捕虜になっている者を身代金を払って買い戻して「解放する」、自由にする、そういう意味です。私たちの側には自分で自分を救う力がない、神さまが自由にしてくださらなければ自分を自由にすることができません。私たちを贖ってくださる神さまの救いを求めていきましょう。

我らのために救いの角を
 「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起された」(69)ダビデは旧約聖書に出てくるイスラエルを統一した王さまです。神さまはダビデにサムエル記下7章11~16節でダビデの家から救いを起こすという約束をされました。詩編132編17節「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる」詩編18編3節「救いの角」とザカリアは「昔から聖なる預言者たちの口を通して」(70)語られてきたことがいよいよ起ころうとしている。すでに起こされたことを語ります。主の救いはふっと湧いてきたようなものでなく神さまの確かな契約において実現した救いなのです。
 神さまが起こしてくださった救いの角である主イエス・キリストがこの罪の世界に勝利して私たちに救いと勝利をもたらしてくださったことに感謝しましょう。