礼拝メッセージ(2019年9月15日)

『 主の道を備えることができるか 』 ルカ1:76~78a 牧師 林健一

 先週まではザカリアの預言の前半部分を学びました。ここでは、確実な未来を表す過去形、これから起ころうとすることだけどすでに起こってしまった、先取りのようなかたちで語られています。私たちも先取りの信仰を持っていきたいと思います。今日からは76節「幼子よ」と呼びかけるところから、この預言の後半、第二部を学んでいきたいと思います。76節から79節までの後半は、この幼子(バプテスマのヨハネ)と、やがて生まれる救い主によってもたらされる救いが描かれているところです。神さまは、この世界にどのような救いをもたらしてくださるのでしょうか。

幼子よ、お前はいと高き方の預言者として呼ばれる
 ザカリアは、生まれてきた子どもに「いと高き方の預言者として呼ばれる」者となる。と預言します。それは誰から呼ばれるのか?人々からそう呼ばれ、認められるということなのでしょうか。そうではないようです。ここでザカリアが預言していること、人々からそう呼ばれるという意味ではなくて、神さまからそう呼ばれるということです。神さまからそう呼ばれる とても大事なことです。
 パウロなどが「自分は召されて使徒となった」という時の「召された」、これが「呼ばれる」と同じ言葉です。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者として呼ばれる」ということは、その「いと高き方」から「呼ばれる」ということであり、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者」として「いと高き方から召される」ということと同じなのです。主イエス様が弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16a)と言われました。私たちが何かがむしゃらに頑張って神さまのところに行こうとしなくても、神さまのほうから私たちを呼んでくださったのだから大丈夫だと言われます。私たちを呼んでくださる神さまがおられることを知りたいと思います。

主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
 ザカリアは幼子がいと高き方の預言者として、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるのだとこれからする働きを預言します。「救いを知らせるからである」と訳されているところは「救いの知識を与えるため」、こういわれています。「救いの知識」とは頭の中で「救い」とはどういうものかを教理的に理解する「知識」のことではなくて、体ごと味わって分かるという、「体得する」「体験する」、そういう体験の知識です。私たちは主の救いを頭で理解するのではなく主の十字架による救いの体験が与えられているのです。私たちは人々に体験した主の救いを証ししていく。人々の心を主に向かわせていくそのような務めが教会に与えられているのです。