礼拝メッセージ(2020年4月19日)

『 主の恵みを振り返り福音を伝えていく教会 』 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ  5章:16~18節 林健一 牧師

大事なことを忘れていた
 FEBCキリスト教放送局のあるコーナーで「今年のイースターで教えられたことは、本来イースターには死の匂いがついているのだということを知ったことです」。私ははっとしました。本来イースターというのは死という現実があるにもかかわらず神様が私たち信じる者をイエス・キリストにおいて復活させてくださるということを信じるということです。神さまの恵みをリアルに体験していくこと。これがイースターであり、福音に生きるということなのだと…。コロナウィルスの感染拡大がおさまらないなかでイースターを教会で過ごすことができない教会がたくさんあったでしょう。教会で共に集ってイエスさまの復活を喜び祝うことができないことは残念です。こういう状況のなかでもし「自分がコロナに感染してしまったら」という恐れと不安を覚えるときあらためて私たちの拠り所、唯一の希望は何に、何処にあるのかということに気づかされる、考えていくイースターとなったのではないでしょうか。本日はテサロニケの信徒への手紙が御言葉として与えられました。パウロはテサロニケ教会の人たちが多くの困難や迫害の中にあっても信仰に立ち続けていることをテモテから聞いて喜びました。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです」(3:9)。もともとの意味は「主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今生きる」です。そういう中でも聖書は私たちが主にあって堅く立つなら生きる者となることを教えています。

私たちの生涯は、神さまとの交わりの生涯である
 「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです。」(Ⅰペトロ1:15~16)神さまによって救いの恵みにあずかる者とされたという意味を考えて歩むことは大切なことだと思います。そのことは、私たちが信仰者としてどう歩まなければならないか、またどう生きるべきかという根本的な問題に関わることです。イエス・キリストをとおして神さまに召された私たち、聖なる者とされた私たち。そうなった私たちの生涯は、神さまとの交わりの生涯であることをあらためて確認したいと思います。教会に行けなくなるという状況のなかで普段やっていることができなくなっていくというなかで私の人生がぐらついていると思うとき私の人生の目的、意味、心の関心、心の目がどこに向いていたのかを… 私たちの生涯が「神さまとの歩み」であることをもう一度考えなければならないと思います。私たちが動かされるものはコロナでなく神さまにあって生かされている恵みという事実です。私たちを生かすのはこの世ではありません。イエス・キリストなのです。

神さまとの歩みが確かなものである
 今日一緒にお読みした「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という御言葉ですが、これは何か私たちが守らなければならないというものではありません。そんな単純なことを言っているのではないのです。「イエス・キリストにおいて」福音をリアルに体験した私たちに当然のごとくこれらはなるものだということをパウロは語ります。パウロはテサロニケの教会の人たちにこれらを手放しはいけない。毎日の生活において繰り返し経験し続けなさいと勧めます。励ましています。言い換えればいつもイエス・キリスト・福音を体験し続けなさいということなのです。どうぞどんな時にもイエス・キリスト・福音を体験していく恵みを味わい続けていく一年間となりますように祈り願います。