礼拝メッセージ(2020年4月26日)

『 歓迎されない預言者 』  ルカによる福音書 4章:22~24節  林健一 牧師

ヨセフの子ではないか
 安息日に故郷ナザレの会堂でイエスさまは預言者イザヤ書を読んで「主の恵みの年」(4:19)が聞いたあなたがたの中に今日、実現したと宣言されました。恵みの言葉を耳にしたあなたがたは証人となり人々に話さずにはいられないのです。権威ある恵みの福音を聞いたのです。会堂でイエスさまの言葉を聞いた人々の反応はどうであったのか?ルカ福音書には「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」(22)。確かに人々はイエスさまの教えに初めは驚き好意的なのですが、途中からつまずきに変わります。イエスさまは「この人はヨセフの子ではないか」(22)、「この人は、大工ではないか。マリアの子ではないか」(マルコ6:3)

イエスさまにつまずいた人々
 人々はイエスさまの教えでなく、教えているイエスさまのことを話し出しました。イエスさまの口から出る恵み深い言葉、知恵には感動する。けれども、その言葉や知恵を語るイエスという人を見ると、この人は「ヨセフの子ではないか」。私たちと何も変わりがないじゃないかという反応にマルコ福音書でははっきりと「イエスにつまずいた」(6:3)と書いています。この時の人々の心境はどうであったでしょうか?あの大工ヨセフの後をいつもついていた幼いイエスを私たちはよく知っている。「自分はよく知っているはずだ」という思い上がりです。人々はもちろんイエスさまにつまずいたのでしょう。しかし、人々は自分たちの高慢さにつまずいたのではないでしょうか。人々の心にあるのはあのイエスを神さまが「油注がれ」「遣わされ」るはずがない。という思い込み、知ったかぶりの思いが人々をイエスさまにつまずかせたのではないでしょうか。

しるしを見せたら信じてやろうじゃないか
 イエスさまにつまずいた人々、ではいったい誰が語るなら神さまの言葉を受け入れるというのでしょう。光り輝く御使いが目の前に現れて語るならば信じるでしょうか。イエスさまにつまずいた人々はたとえ神さまが目の前におられてイエスさまと同じ言葉を語られたとしても素直に受け入れることができないでしょう。イエスさまにつまずいた人々をとおして気づくことがあります。私たちの高慢な思いです。神さまの言葉をまえにしてへりくだろうとしない思いが私たちの心にもあるのだということを知らなければなりません。たとえ正しいことを指摘されたとしても「お前にだけは言われたくない」「あなただって同じことをしているでしょう」様々な言い訳をする私たちです。真実を指摘されるなら私たちの心には烈火のごとく怒りが燃え上がり指摘した人を攻撃するのです。神さまの言葉のまえにへりくだることができたらどんなにすばらしい癒しと平安が待っていることでしょう。しかし、そうなれない私たちがいるのです。人々の反応を前にしてイエスさまは「カファルナウムでしたことを故郷ナザレでもしてくれ」(23)カファルナウムでした奇跡を見せてくれたら信じるだろう。イエスさまは私たちの頑なさをどこまでもよく知っているということです。

神さまが語られた福音を喜んで受け入れる者となるために
 イエスさまは受け入れない人々を厳しく裁かれる方でしょうか?そうではないのです。福音に気づくようにと促しておられるのです。私たちは神さまの恵みに気づかなければなりません。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24)。イエスさまは厳しい言葉のなかにも人々に神さまの恵みをもう一度教えようとされるのです。「自分の故郷では歓迎されない」この「歓迎」とは「受容する、受け入れる」という言葉です。前回学んだ「主の恵みの年」の「恵み」と対比しています。神さまはあなたがたを喜んで受け入れている。あなたがたのいまの姿と神さまの恵みをよく比べてみなさい。私たちのいまはどうでしょうか?今週から静まる時間がいつもより多く与えられる方もおられるのではないでしょうか。今一度、自分の心と向き合いつつ神さまの恵みに対してどうであったのかふり返る時を持っていくことを私たちは持とうとではありませんか。