礼拝メッセージ(2022年10月23日)
『 イエスと神殿 』
  林健一 牧師 
ルカによる福音書 19章:47節~48節

19章 47節:毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、

19章 48節:どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

ルカによる福音書 19章:47節~48節(新共同訳)

 

 先週は、イエスさまが神殿を清めたという話を学びました。この後イエスさまは神殿で何をなさったのか?マタイによる福音書を読みますと、商売人たちを追い出した後、目の見えない人や足の不自由な人がイエスさまに近寄って来たので、境内でそういう人たちをいやされたという出来事が記されています。それに対してルカは、もうエルサレムにおけるイエスさまのいやしだとか奇跡だとかいう御業は一切記しません。


 ただひたすら「教える」イエス、神殿の「境内で教える」イエス、これだけに一点集中して描きます。つまり、ルカの福音書を読むと、神殿を清める、そして清められた神殿とはどういうものかと言うと、前回の言葉では「祈りの家」であるべきだし、それをまたイエスさまの実際の生活から見ると、「イエスの教え」が語られる場として描いているわけです。ですから、前回はエルサレム神殿の「祈りの家」という側面を注意したのですが、今回はエルサレム神殿の「教え」の場としての姿、これを確認しておきたいと思います。


 47節 毎日、イエスは境内で教えておられた。
 イエスさまは神殿を、ご自分の父の家といい、そこに自分がいることが当然だといって、そこの教えを楽しんでおられました。それから二十年ほどしたこの時、イエスさまは神殿におられて、父の家を「強盗の巣」としている人々を追い出され、境内で教え続けられたのです。


 民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである
 ここにこそ、イエスさまが本当の「祈りの家」を回復されている姿があります。「夢中になって…」という所には、「ぶら下がる」という面白い言葉が使われています。イエスさまの教えにぶら下がる、しがみつく、食らい付く。それこそが、イエスさまがここにもう一度始められた「祈りの家」なのです。神さまの愛を見失い、この世の色々なものに自分を見失っている人々を、イエスさまは探して取り戻すために来られました。神さまにも御利益を期待するだけ、貪欲な心、強盗のような生き方をイエスさまは、引っ繰り返してくださいます。そして、主の家で祈りをささげ、福音に熱心に耳を傾ける民としておられます。妬んだり恐れたり思い煩ったりして、祈るにしてもそんなことばかり祈っていた心を、本当に私たちを愛し、養ってくださる主を信じ、祈る心に変えてくださるのです。