礼拝メッセージ(2022年10月30日)
『 イエスの権威 』
  林健一 牧師 
ルカによる福音書 20章:1節~8節

20章 01節:ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、

20章 02節:言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」

20章 03節:イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。

20章 04節:ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」

20章 05節:彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。

20章 06節:『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」

20章 07節:そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。

20章 08節:すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

ルカによる福音書 20章:1節~8節(新共同訳)

 神殿の境内で教えておられるイエスさまのもとに、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に、近づいて来て、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」(2)とイエスさまを問いつめました。この「何の権威で」という問いは大変興味深い、考えさせられるものです。なぜなら私たちもしばしばこういう問いを発するからです。それは、ある人の言葉が信頼できる本当のことなのかどうか、その人に聞き従っていって大丈夫なのかどうか、という場面においてです。そういう時に、その人にはどのような権威があるのか、と私たちは問うのです。そのように私たちは、権威を頼りにし、求めているのです。そしてこの「何の権威で」という問いは必ず、「その権威を与えたのはだれか」という問いを伴います。


 この問いに、イエスさまは逆に一つの問いをもってお答えになりました。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」(3・4)。イエスさまはこの問いによって、今ここで問題となっていることの根本に何があるのかをはっきりと浮き上がらせておられます。天からのものか人からのものか、それは、神からの権威によるのか、人間の権威によるのか、ということです。彼らは主イエスさまの権威を問題にし、それを問うたけれども、本当に権威ある方である神さまに従おうという思いを全く持っていない、ということです。彼らは権威を自分のものとして利用することしか考えておらず、権威に従うつもりはないのです。ヨハネの洗礼のことを持ち出し、「分からない」という答えを引き出すことによって主イエスさまはそのことを明らかにしておられます。


 主イエス・キリストが神の独り子であり、神から遣わされて、福音を告げ知らせた救い主である、というのは本当だろうか、という問いを私たちは抱きます。つまり主イエスさまの権威を問う問いです。それは信仰に至る道において大事な、避けて通れない問いです。その問いを、私たちは本当に真剣に問わなければなりません。そしてこの問いに対する答えは、この問いを真剣に問うことの中で自分が変えられていくこと、新しくされていくことを受け入れ、求めていくところにこそ与えられるのです。