礼拝メッセージ(2022年11月6日)
『 ぶどう園の主人と農夫 』
林健一 牧師
ルカによる福音書 20章:9節~19節

20章 09節:イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。

20章 10節:収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。

20章 11節:そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。

20章 12節:更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。

20章 13節:そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』

20章 14節:農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

 20章 15節:そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。

20章 16節:戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。

20章 17節:イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』

20章 18節:その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

20章 19節:そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

ルカによる福音書 20章:9節~19節(新共同訳)

 本日の聖書箇所は、イエスさまのたとえ話が記されています。ぶどう園の主人と農夫のたとえです。「ある人」と最初に書かれているぶどう園の主人は、神さまのことをたとえています。そして「農夫たち」というのは、旧約聖書の神の民であるイスラエルの民、とくにイスラエルの民の指導者のことを指しています。そして、ぶどう園の主人が次々に送った僕(しもべ)たちというのは、預言者たちのことです。ところが、イスラエルの民は預言者の言葉に耳を傾けなかった。そういう旧約聖書の歴史を振り返っています。


 それでぶどう園の主人は、自分の愛する息子を送ることにしました。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と。この主人の「愛する息子」というのはイエスさまのことです。神さまがそういう思いでイエスさまを送られたことが分かります。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と。ところが、農夫たちは、あろう事か、その息子を殺したのです。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか、と。「戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない」とおっしゃいます。


 この悪い農夫たちにもとてもおかしな考え方があります。それは14節で言っていることです。‥‥「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」 9節をご覧いただきますと、「これを農夫たちに貸して長い旅に出た」とあります。農夫たちに「貸した」のです。つまり、ぶどう園は主人のものです。すなわち神さまのものです。その神さまのものを、自分たちのものであるかのように考えているところに大きな間違いがあります。しかしこれは、この農夫たちだけの問題ではありません。神さまのものを自分のものであるかのように考えるという点は、私たちも同じように考えてしまうと言えます。


 ぶどう園の主人は、この農夫たちをどうするだろうか。イエスさまは、「戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない」とおっしゃいました。では我々は殺されたのでしょうか?‥‥そうではありませんでした。十字架で殺されたイエスさまは、ご自分を殺した者の罪、ご自分を十字架に追いやった者の罪を担ってくださったのです。本当ならば、このたとえ話のように殺されるべき農夫たちでしたが、その罪を十字架で担ってくださった。滅ぼされるべき私の代わりに、イエスさまがその罪を引き受けてくださった。ここに悔い改めるチャンスが私たちに与えられています。