礼拝メッセージ(2018年2月11日)

「エッファタ 開け」

マルコによる福音書:7章31節~37節

林 健一 牧師

 

この人だけを
本日の箇所には、主イエスが、「耳が聞こえず、下の回らない」人を癒された出来事が記されています。主イエスは、先ず、この人だけを群衆の中から連れだします。それは、主イエスがこの人と真剣に、一対一で向かい合われたことを意味しています。この人を、自らを求めて来る群衆の中の一人としては扱われないのです。耳の聞こえない人は、大勢の人の中で言葉を語りかけられても、その人が果たして自分に関わりを持とうとしているのかどうか分かりません。この人は、主イエスが人々の中からこの人を連れ出して面と向かわれることによって、主イエスが他でもなく、自分に特別な業をなそうとされていることを悟ったことでしょう。主イエスは、それぞれの人にしっかりと向かい合い、それぞれの仕方で関わりを持って下さるのです。
耳と口を開く愛
この箇所が伝えようとしていることは、人々を驚かせるだけの奇跡行為者としての主イエスの姿ではありません。全ての人に対して示されている主イエスの愛なのです。私たちは愛に生き得ない者です。愛に生き得ないという私たちの罪は、耳を聞こえなくし、口を利けなくするのです。私たちは日々の生活において、隣人の言葉を聞くための耳が開かれているでしょうか。むしろ閉ざされていることが多いように思います。主イエスは、罪によって「耳が聞こえず、舌が回らない」私たちのもとに来られ、愛を示して下さる方なのです。私たちの閉じられた心は主イエスの愛によって開かれるのです。
深いため息
ここで、私たちは、もう一つの今までとは異なる主イエスの姿に目をとめたいと思います。「天を仰いで深く息をつき」と記されています。この言葉には、主イエスの嘆き苦しみが示されているのです。この福音書が、息をつかれる主イエスの姿を記すのは、この箇所が初めてです。耳が閉ざされている者は、隣人の言葉だけでなく、主イエスの語る御言葉も聞くことが出来ません。そのような人々の罪を、主イエスは嘆き苦しまれたのです。主イエスの愛の業の背後には、人間の罪に対する嘆き、苦しみがあるのです。
十字架の苦しみ
主イエスのため息に示される嘆き苦しみは、自らの命を投げ出す十字架の嘆き苦しみに通じています。このことに神の愛が現されています。十字架を示される時、主イエスが嘆きつつも、私たちの罪によって閉ざされている聞こえない耳と回らない舌に触れて、「開け」と語って下さっていることを知らされるのです。(林)