礼拝メッセージ(2019年1月6日)

『 救いを受ける準備をせよ 』 ルカによる福音書 3章:7節~20節 牧師 林 健一

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔改めにふさわしい実を結べ。・・・斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(3:7-9)。
 
 厳しい裁きのメッセージです。ユダヤ人は、終末が到来する時には、裁きが異邦人の身に降りかかるだろうと期待していました。しかし自分たちは神の民として、裁かれることなく、神の国の相続人になると考えていました。バプテスマのヨハネは彼らの甘い期待を打ち砕きます。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、悔い改めない者は裁かれるとヨハネは言ったのです。罪=ハマルティアとは、「的をはずす」との意味です。聖書の罪とは自分を創り、生かしてくださる神様の方を見ないで、自分の方だけを見ることが罪なのです。自分が罪人であることを認めること、救いはそこから始まるとヨハネは言っているのです。

 このままでは救われないとのヨハネの言葉に、群衆は驚き、尋ねます「では、わたしたちはどうすればよいのですか」(3:10)。ヨハネは彼らに答えます「下着を二枚もっている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(3:11)。これまで自分だけを見ていた眼を他者に広げよとヨハネは言います。「悔い改めにふさわしい実」として必要なことは、神さまに信頼し、今自分の置かれた場で神様の心にかなう生き方、隣人と共に生きることだと言います。

 バプテスマのヨハネの出現はメシアを待ち望んでいた人々に大きな興奮を与えました。人々はもしかすると、このヨハネこそ来たるべきメシアではないかと思い始めます(3:15)。メシアを待望していた人々に対して、ヨハネは「私よりも優れた方」の到来を予告しました。「私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」(3:16)、履物の紐を解くのは奴隷の仕事です。自分はメシアではなく、その準備をする者だと彼は言うのです。ヨハネはまた、自分は「水によるバプテスマ」を授けるが、その方は「聖霊と火によるバプテスマ」を授けられると言います。17節「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 「箕」は麦の殻と実をより分けるための農具です。「風と火の中に沈めること」、実と殻が分けられる、神様の裁きを示します。バプテスマのヨハネが予告した「来られる方」は、神様の裁きをもたらす人だったと言えるでしょう。ヨハネはその裁きの到来の前に、人々に回心することを呼びかけたのです。

 実際に来られたイエス様は、裁きをもたらしに来たのではありませんでした。地上で活動されたイエスさまは、むしろ神様の赦しをもたらす方でした。イエス様ご自身が私たちの罪を自ら負い、十字架で贖罪の死を死なれました。そのことによって、私たちの罪の赦しが果たされていきます。ここに自分を見つめるのではなく、神様を見つめる生き方が示されました。私たちは、主イエス様による罪の赦しの恵みにあずかっているがゆえに、悔い改めることができるのです。神様の方に向き変わることができるのです。自分自身のことばかりを見つめている目を、神様に向けることができるのです。そしてヨハネが教えたように、日々の生活において、神様に心を向けて歩むことができるのです。ヨハネよりもはるかに優れた方である救い主イエス・キリストの恵みの中で、私たちは、ヨハネが教えた悔い改めにふさわしい実を実らせていくことができるのです。