礼拝メッセージ(2019年2月3日)

『 もう泣かなくともよい 』 ルカによる福音書 7章:11節~17節  牧師 林 健一

 信仰は私たちの悲しい時、苦難の時に大きな慰めと力、生きる希望を与えてくれます。キリストにあって慰めと希望を与えられるのでなければ、私たちの信仰は無益なのではないでしょうか。キリストへの信仰は人生の悲しみの時に真実の慰めと力を与えてくれるのです。主イエス様と弟子たちの一行はカファルナウムからナインという町に行かれました。その町の門のところで葬儀の列と出会いました。主イエス様はその棺(担架のようなもの)の傍らにひっそりと付き添う一人の女性に目を留められました。「ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって」(7:12)と記されています。この母親はかけがえのないひとり息子を亡くしました。主イエス様ご自身がこの女性の身に起こった悲しみの出来事を見て取られたのです。彼女の生きがいであり希望であった息子が奪われてしまった。主イエス様はこの母のうめき声を聞き取ってくださったのです。
*主イエス様は私たちの悲しみをよく知っておられます。悲しみを慰めてくださるのです。
 母親そして付き添っていた人たちもただ泣くことしかできませんでした。母親に対して主イエス様は深い憐みと同情を持たれました。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」。(7:13) ここで「憐れに思い」と訳されている言葉は、ギリシア語で「スプランクニゾマイ」という動詞です。この言葉は「スプランクナ=内蔵、はらわた」という名詞に動詞の語尾をつけたもので、目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたが揺さぶられる、ということを表す言葉です。ある人はこれを「はらわたする」と訳しました。普通の日本語では「胸を痛める」と訳すのがよいでしょうか。胸よりも内蔵のイメージですから、「肝苦りさ(チムグリサ)」という沖縄の言葉が一番近いかもしれません。目の前の人の痛みを自分の体で感じてしまう、そのような深い共感を表す言葉なのです。主イエス様は心底からこの母の悲しみを思いやり、憐れみ、「もう泣かなくともよい」と言われたのです。
*あなたにも激しい熱情で愛し、悲しみに寄り添ってくださる主イエス・キリストがいまあなたと共にいることを知ってほしいのです。あなたの悲しみの涙を止めてくださるお方なのです。
 考えてみれば「泣かなくともよい」とは不思議な言葉です。悲しみに遭った人には「泣くがいい」、「泣きたいだけ泣きなさい」と言う以外ない。しかし主イエス様は「もう泣かなくともよい」、「泣き続けるな」とおっしゃいます。主イエス様は人の気持ちがお分かりにならないのか。決してそうではありません。主イエス様は心底からこの女性に対して悲しみを思いやり、深い同情をもって言われたのです。それは主イエス様に出会うならば、もはや泣かなくてもよいからです。
*神様の憐みは単なる同情でなく行動が伴います。この後彼女は驚くべき恵みを体験します。私たちにも神様の憐みと共に恵みが伴ってくるのです。私たちは共に福音の恵みを体験していきましょう。