礼拝メッセージ(2019年4月14日)

『 父よ 彼らをお赦しください 』 ルカによる福音書 23章:26節~38節 牧師 林健一

 エルサレムの町はずれの処刑場まで連れて来られたイエス様は、「されこうべ」と呼ばれる場所で他の二人の犯罪人と共に十字架にかけられます。十字架刑は古代ペルシャ、アッシリア、ギリシャとローマまで幅広く行われた最も残酷な死刑の方法でした。十字架に架けられた者は、すぐに死ぬことはできず、徐々に苦しみを受けつつ、完全に裸にされ、屈辱のなかで心にも苦しみを受け、架けられたまま、通り過ぎる人々にあざけられ、死ななけれなりませんでした。
十字架につけられるとはどういうことでしょうか。それは重罪人として殺されることです。重罪人として、この世から取り除かれるということです。もう二度と生まれて来るな、お前みたいな者は不要だといって殺されてしまうということであります。だからパウロは、ガラテヤ書3章13節でイエスは呪われて死んだと書きました。「呪い」とはある意味で存在の抹殺といってもよいでしょう。
しかし、宗教改革者マルチン・ルターは「十字架だけが私たちの神学」だと言いました。「神学」のもとの意味は「神とはどういうお方であるか」ということです。言いかえればルターは「十字架につけられたイエス・キリストのみをとおして神とはどういうお方、神について知ることができるのだと」言っているのです。なぜルターそう言い切れたのでしょうか?十字架につけられたイエス様は何を私たちに語り、見せようとしているのか、聴いていきたいと思います。