礼拝メッセージ(2019年8月25日)

『 この子はどんな人になるのか 』 ルカ1:57~66  牧師 林健一

 ルカによる福音書第1章57節以下からみ言葉に聞きます。ここには、洗礼者ヨハネの誕生と命名の日のことが語られています。洗礼者ヨハネの誕生は、57節で、「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ」と簡単に語られています。それに対して、二番目の名付けのところでは、非常に不思議ないきさつがあって人々皆が「驚いた」という奇跡的な様子が強調されています。今日は、この二つについて学びたいと思います。
共に与えられたいのちを喜ぶ
 「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ」(57節)。私たちはこれが、単に妊娠の期間が過ぎて子どもが生まれた、ということではないことをこれまでに読んできました。二人共既に年を取っていて、もはや子どもが生まれることなどあり得ない。いのちが与えられることの畏れと尊さを覚えるのです。人は父なる神さまの御思いをうけてこの世にいのちをいただいて生まれるわけです。一人一人が父なる神さまの御思いのなかで生まれ、人生を歩んでいることの意味を知ればどんな人であっても神さまから祝福されたいのちであることを私たちは覚えなければならないのです。「大いに慈しまれた」(58節)これは、「主が、憐れみを彼女にとって大きなものとしてくださった」エリサベトに神さまの憐れみが大きくなった。私たちにも、その憐みが大きく見える。そう言って祝福したのだと思います。私たちも、教会の人たちのなかに病気が癒された、問題が解決した、そのようなことを聞いて神さまはまことに憐れみ深いお方だと神さまを賛美します。しかし、私たち人間は神さまの憐れみをまことに見ているのかどうか疑問に思う必要もあるかと思います。この次のヨハネの命名のところで近所の人たちは本当の意味での神さまの御思いについてわかっていなかったことが描かれています。
間違いなく私たちと共におられる神さま
 八日目の割礼のときに親類は何という名前にするのか。もちろん「父の名」にちなんで「ザカリア」とするのだろうと誰もが思っていました。しかし、エリサベトとザカリアは「この子の名はヨハネ」と名付けなくてはならないと言いました。「ヨハネ」という名の意味は「ヤハウェは慈しみ深い」。マリアの賛歌の中で、「主の憐れみは代々に限りない」とほぼ同じ趣旨です。「聞いた人々は皆これを心に留め、『いったい、この子はどんな人になるのだろうか』と言った」(66節)。「この子をどんな人にしようか」ではなく神さまがどんなふうにこれからこの赤ちゃんを導こうとされているのか。神さまの御手がどうあるのか。心を留めるように私たちをも導かれます。この世界は何とかして生き抜かなければいけないというふうな世界です。しかし、私たちキリスト者はそうではない。神さまがどう私たちと共におられて御手があることにまなざしを向けていかなければいけないのです。