礼拝メッセージ(2020年11月29日)

『 安心して行きなさい 』  ルカによる福音書 7章:36~50節 林健一 牧師

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19・10)
 ルカはイエスさまご自身が語られた言葉をとおして主がこの世界に来られた目的は失われた者を捜して救うためであり、そのために私は父から遣わされて来たのだ。ルカによる福音書が記された目的もそこにあります。神さまはすべての人間たちを、必ずや神の子としての姿、罪にまみれて見えませんが神さまだけはあなたの真実の姿を見出しご自分のもとに連れ戻すのです。ここにも一人、罪を犯した女性がいました。彼女は神さまから離れていた人生を歩んでいました。しかし、神さまに見出され罪を赦されました。新しい者とされた彼女は大きな愛を神さまにあらわすのです。神さまに罪を赦されるとはどれほどのものなのか彼女がイエスさまに示した行動から見ていきたいと思います。

神さまはどんな罪人でも受け入れるお方です。
 イエスさまはファリサイ派のシモンの家に食事に招かれていました。ファリサイ派の人たちは神さまの言葉(律法)を熱心に守り、彼らなりの正しさと信仰に生きようとしていた人たちでした。しかし、正しさに生きるときに私たちは愛と憐みを失います。自分の正しさを神さまに対して立証するためにファリサイ派の人たちがしたこと、それは正しくない人たちをつくることでした。ファリサイ派の人たちは自分の正しさの基準に達しない人たちを罪人して厳しく非難しました。イエスさまのもとに来た、この女性もファリサイ派の人たちからは罪人と見られていたことでしょう。

この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。(37・38)
 シモンは彼女のしたことも侮蔑の思いで見ていました。しかし彼女のしたことよりもイエスさまのなすがままの態度に驚いたのです。罪人にふれさせるなんて。シモンは心の中でイエスさまを裁きました。しかしイエスさまは彼女の罪に苦しむ心をよく知っていました。彼女は必死の思いでイエスさまのまえに出てきたのだと思います。それをわかっていたからこそイエスさまは彼女を受け入れたのです。神さまは私たちの過ちや弱さ、ずるいところもよく知っています。罪に苦しみ痛んでいることもよく知っています。だからこそ私たちを受け入れてくださるのです。私たちは正しさに何を求めますか。人を裁いて切り捨てる正しさでしょうか。それとも人の過ちを受け入れ赦す正しさでしょうか。

私たちの不完全な愛も主は赦し受けいれてくださる。
 シモンが心のなかで思ったこと。「彼女は罪人なのになぜイエスは為すがまにさせているのか」ある意味もっともなことだと思います。あなたに神さまこう言われます。「なんとあなたは傲慢であり、私の愛を知らないのか。いつまで自分の正しさにすがっているのか?この世界に正しい者など一人もいない。神に正しさを認められる人間など一人もいないのだ」私たちは礼拝に当然のごとく来て、イエスさまに礼拝をささげています。しかし、イエスさまがもし私たちを罪人ゆえに拒んだとしたらどうなってしまうのでしょうか?罪人でありながら、もしかすれば私たちの心はいろんなことでいっぱいになって神さまに心が向いていないことがある。そんな私たちであっても神さまは黙って受け入れてくださる。なんと広くて深く大きな愛でしょうか。イエスさまは彼女の愛を喜んで受け入れたと同じく私たちの愛も喜んで受け入れてくださるのです。だからこそ私たちは安心して神さまのもとに行くことができるのです。