礼拝メッセージ(2020年12月13日)

『 愛は恐れをうちやぶる 』 マタイによる福音書 1章:18~25節  林健一 牧師

 私たちの救い主はどのようにしてこの世界に誕生されたのでしょうか。主イエス・キリストは恐れを打ち破って来られるお方です。

1.恐れのなかにいたヨセフ(マタイ1:18~20a)
 マリアと婚約したヨセフは大きな葛藤の中に置かれていました。それはマリアが身ごもったことを聞かされたからです。ヨセフにとって大きな衝撃でした。どんなに愛し合い、信頼し合い、尊敬し合っている仲であっても、この状況でこの説明をすなおに受け入れる人はいないでしょう。「自分のまったく知らない、何か裏の姿がこの人にはあったのだろうか」と悩み、苦しむものです。なぜ神さまはヨセフとマリアに対して同時に現れてくださらなかったのでしょうか。二人が一緒にいる時に語りかければ、ヨセフが葛藤と恐れの中に置かれることもなかったでしょう。しかし、葛藤と恐れがヨセフの心をより神さまに向けさせていくのです。恐れや試練の中で忘れていた神さまへの信頼と求める心が呼び覚まされることがあります。恐れを恐れないでその先にあるものに目を向けてください。恐れをとおして私たちの心は神さまを見ることができるようになるのです。聖書にはヨセフは正しい人であったと言っています。必ずしも正しい人が神さまを見ることができるとは限りません。人間は必然的に神さまを見ようとしないのです。人生の暗闇のなかでこそ光は輝くのです。

2.愛に満ちた神さまの救い(マタイ1:20b~22)
 ヨセフが悩み苦しみつつ精一杯下した結論はこうでした。マリアを世間のさらし者にするわけにはいかない。まして社会的な制裁に遭わせるわけにはいかない。ひそかに婚約解消してマリアを去らせよう…。「表ざたにする」(ティグマティサ)恥などを暴露する、明らかにするという意味の言葉。ヨセフは自分の義を保つために、相手の恥を暴露し、破談を宣言しけなればならない状況にありました。しかし、ヨセフはそうしませんでした。ヨセフは正しい人でありましたが、マリアの恥をさらさなかったのでした。こう決断するに至ったのは、ヨセフが神さまのお姿を、旧約聖書が深いところで教えているように、正しく、同時にあわれみに満ちたお方として理解していたからです。ヨセフは真に正しい人でした。神さまのお姿を正しく知っていた人でした。だからこそ神さまの救いを見ることができました。神さまの救いが見えないという人は神さまを正しく見ていないからです。ヨセフはこのことを内密に収めようとしましたが、主の使いが現れ、マリアのお腹の子は聖霊によって身ごもったことと、生まれる子は「民を罪から救う」と告げられました。ヨセフはそれまで抱いていた恐れと葛藤を乗り越えて、主の御使いのことばを主なる神のことばとして受け入れて、決断を下しました。

3.神はわたしたちとともにおられる(マタイ1:23~25)
 生まれてくる子は「イエス」と名付けられました。イエス(主は救われる)という名は当時とても多い名でした。しかし、その名を持つ人の中には、メシア(救い主)なるイエスはいませんでした。神の子である方だけが救い主イエスなのです。「自分の民を罪から救い出す」神さまから離れている人間を唯一救い出すことのできるお方です。イエスのもう一つの名は「インマヌエル」で「神は我々と共におられる」という意味です。人間は罪を犯している存在です。人間は神さまと共にいることのできない存在であるということです。それは死を意味しています。人間は神さまのところに行こうと努力しましたができません。人間が挫折しているとき、神ご自身が人間の体をもって来られました。恐れの中にある私たちに主イエス・キリストは来てくださったのです。