礼拝メッセージ(2020年4月5日)

『 救いを成し遂げられたキリスト 』 ヨハネによる福音書 19章:17~30節 林健一 牧師

今の状況に何を見るか?
 コロナウィルスの感染拡大が止まりません。日に日に感染者が増えていく状況をニュースや新聞、スマホなどで見るに聞くにつれて私たちの心も不安と恐れに押しつぶされそうになります。感染拡大をなんとか阻止するために政府や自治体は土日の外出自粛要請や学校の休校など対策をだしています。それがさらに私たちの経済、生活、そして医療がどうなっていくのか出口が見えない、心の不安を増大させています。このようなときこそ注意深く物事を見ることが必要だと思います。そうでないと私たちは流れに飲み込まれてしまいます。FEBCの放送でカルメル会宇治修道院司祭の中川博道さんが「注意深くあることそれ自体が祈りそのものだ」と語っていたことに心が留まりました。中川さんは注意深く生きることについて現代人は今を生きることができないでいる。過去に悔んだり未来を心配したりして今を生きることに集中できていない。それは今あなたに働いておられるイエスさまの声に心を閉ざしてしまっているのだと。
 ピラトがイエスさまとバラバ、どちらを釈放してほしいかと群衆に尋ね求めたら、群衆はバラバを釈放してユダヤ人の王イエスさまを十字架につけろと求めました。ピラトは何度も群衆に聞きました。しかし群衆はイエスさまを十字架につけろと叫び続けたのです。結果イエスさまは十字架につけられました。群衆を愚かと見るでしょうか。もし私がそこにいたら私もイエスさまを十字架につけろと叫んだとはっきりと言えます。真実を見ようとしない心、神さまを知ろうとしない曇った心の目、イエスさまが正しい人だとわかっていても孤独になることを恐れて真っ直ぐに進むことより周囲に合わせてしまう弱い自分。イエスさまの十字架は私たちに人間の罪とは何であるのか一人ひとりに語ってくださるのです。聖書は、神さまと向き合おうとしない、神さまの御心に従おうとしない人間の自己中心の生き方が罪であると指摘します。神さまの意思を聞こうとせず、自分自身が最後の拠りどころであり、自分に有益か否かによって善悪を決めるエゴイズムそれが人間の罪です。そのことが人間を孤独にしてしまい苦しめているのです。己を拠りどころとしていることは結局何者も頼ることができないということなのですから…

注意深くあるときに
 人は自分に固執するときにイエスさまの声が聞こえなくなってしまうのだと思います。自分に働いておられるイエスさまの声に耳を傾けることができないのです。イエスさまが十字架につけられることが決定した後、十字架を背負ってイエスさまはゴルゴダへ向かって行きます。ゴルゴダへ向かう途中の道にも群衆はイエスさまに向かって嘲り罵りの言葉を投げつけます。人間の憎悪というのは直に肉体にふれなくても刺し貫く痛みを人に与えることができるのです。イエスさまは鞭で打たれてそのうえこのような人々の憎悪によってどれほど苦しまれたのでしょうか。
 しかし、注意深く聖書を読むとき一つの言葉が迫ってきます。それはイエスさまが「自ら十字架を背負い」(17節)という言葉です。普通にいけば読み過ごしてしまいます。新しい年度の聖書教育のテキストの聖書箇所が先ほど読んだ聖書の箇所ですが「十字架を自ら背負うキリスト」がテーマになっています。ヨハネはなぜ、あえて、どうして「自ら」「ご自分で」という言葉を入れたのでしょうか。それは私たちにイエスさまの十字架に心を留めるようにという思いからではないでしょうか。私は問い続けます。イエスさまは私の罪を背負われた。それはどれほどの重さだったのですか?苦しみと痛みがその背負われた十字架にあったのですか?そうイエスさまにこの受難週のとき問い続けていきたいと思います。そう問い続けていく時に「イエスさまは本当に私の罪をその十字架に自ら背負われたのだ」とわかるのだと信じます。いま私に働かれるイエスさまの愛と恵みに気づかされるのだとわかります。もう重荷を背負わなくていい。イエスさまが私の重荷を背負ってくださっているのだ。私のためのイエスさまの十字架、そして救いだということがわかるのです。