礼拝メッセージ(2021年4月25日)

『 苦しみを受ける神 』 ルカによる福音書 9章:21~22節   林健一 牧師

人々が期待する神
 当時ユダヤの人々は、聖書(旧約)に書いている「神のメシア」についてどのように理解していたでしょうか。それはユダヤの人々がどのような救い主を期待していたかでもあります。弟子たちを始めユダヤの人々は力あるメシアを待ち望んでいました。当時ユダヤ人は、ローマ帝国(ローマ人)に国を滅ぼされ、支配されていました。自由を奪われ、税金を搾取(さくしゅ)されていました。そのような苦しみと屈辱の中で、人々は、ローマ帝国を打ち破り、ユダヤ人の国を復興する英雄、救世主を待ち望んでいたのです。

イエス様への誤解
 私たちもともすれば、イエス様を誤解します。間違った期待をかけることがあります。それは、イエス様のことを、願えば何でも叶えてくださる救い主だ、神様だと思っていることです。「御心がなりますように」でなく「自分の思いが実現する」ことを必死に求めているのです。イエス様は人々の痛み、苦しさを知っていた。人々の必要をよくわかっていたお方です。それでもこの世界の真の救いの必要が何であるのか弟子たちに教えようとなさいます。

神の御心だけが実現するように
 イエス様は弟子たちに、人々、弟子たちが期待していた『ダビデの子メシア』とは違った「神のメシア」の姿を教え始めなさいます。

 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥(はいせき)され殺され、三日目に復活することになっている」(22節)。
 イエス様は人間に排斥され、多くの苦しみを受け、殺されることを通じて、ご自分が救い主であることをお示しになる、というのです。イエス様は「必ず」されると言っておられます。神様の御心は必ずなされなければならない。ということを言っているのです。イエス様はそうなってしまうという運命論的なものでなく。私たち人間を縛っている罪の縄目から解放してくださる。私たちのために救いは「必ず」なされるのです。本当に幸いなことだと感謝せずにはいられません。今日のイエス様の言葉にこそ私たちは希望を置くべきなのです。