礼拝メッセージ(2021年5月2日)

『 命を得るために 』 ルカによる福音書 9章:23~27節   林健一 牧師

自分の十字架を背負う
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(23節)「十字架を負う」
という言葉は教会の外でも使われている言葉です。それこそ、不祥事を犯してしまった人について、「一生重い十字架を背負って生きなければならない」などと言ったりします。この場合には、消えがたい罪、人生の重荷を背負って生きなければならないという意味で使われているように思います。しかし、それはイエス様がここでおっしゃっている本当の意味でしょうか?

自分の十字架を背負うとはどういうことでしょうか?

 「十字架」というのは、当時のもっとも残酷な死刑でした。それは見せしめの刑であり、同時に世間から「排斥される」ということでの十字架をイエス様は語っているのだと思います。イエス様の後をついていくとき私たちはこの世とはまったく違う道を歩むようになっていきます。この世からあいつは違うぞ、と見られます。もし皆さんがこの世から憎まれる、損をするという経験がなかったとしたらイエス様の後をついて歩んではいないということです。自分を捨ててないということです。キリスト者は愛を行うがゆえに自分を捨て負けるということを選ぶときがあります。イエス様は自分を捨てなさいと言われました。

命を得るために
“自分を捨てなければ、命を得られない”という真理は、私なりに分かる気がします。捨てて得るものがある。でも大事なことは私たちが何を捨てて何を得るかということです。
 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」(25節)自分が、自分で、という思いを捨てて、“神さまが”最善になしてくださると信じて、“イエスさま、よろしくお願いします”と祈り、おゆだねする。“神さまにゆだねて自分にできる精一杯のことをしよう”という思いに変えられます。それは、神さまによって救われた命を生きている、ということだと思います。それは、自分の問題とか悩みとか、苦しみとか弱さとか、そういう「自分の十字架」を日々、逃げずに背負って生きているということだと思います。