礼拝メッセージ(2021年5月9日)

 『 栄光に輝くイエス 』 ルカによる福音書 9章:28~36節   林健一 牧師

 イエス様は、ご自分が長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、十字架に架けられて殺されることを予告し、弟子たちには、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)と言われました。「この話をしてから八日ほどたったとき」(28節)というのが、今日読んだところです。 

 イエスさまが祈っておられると、「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。」(30節)と記されています。

 モーセとエリヤが現れたということは、聖書が現れたということと同じです。つまり、イエス様の祈りに対して、聖書の御言葉が示されたということです。聖書を通して神さまの御心が示された、ということです。神様の御心とは、イエス様がエルサレムで遂げようとしている最期のことでした。イエス様の十字架の死のみを指しているように思われますが、「最期」と訳されているのは「エクソドス」という言葉です。これは「外への道、外へ出ること」という意味です。つまり、イエス様の最期とは、苦しみのうちにエルサレムで死ぬことだ。しかし、それは、単に苦しめられて死ぬことではなく、人の世界から神の世界への「脱出」でもあるんだ。そのように、ルカ福音書は言っているのです。

 ヨハネ福音書14章6節に、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」という言葉があります。この御言葉の本質は「わたしは十字架への道であり、受肉の真理であり、復活の命である」イエス・キリストとは、ただの道ではない。十字架への道なのです。エクソドス”(最後)とは“出発”“旅立ち”という意味も持っています。イエス様が、人のために生きて十字架で殺される「最期」は、神の栄光への“出発”です。イエス・キリストとは、抽象的な命なのではない。復活の命です。もうだめだ、終わっている、私にはどうしようもないとしか思えないところから、しかし、神は、私たちを赦し、愛し、命を与えてくださることを信じるのです