礼拝メッセージ(2021年6月27日)

『 献身する教会 』 ルカによる福音書 9章:57~62節     林健一 牧師

 ここに3人の人が登場します。最初の人は、イエスさまに向かって「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と申し上げました。イエスさまに弟子入りを志願したのでしょうか。するとイエスさまは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」とおっしゃいました。何かこのイエスさまのお答えは、「従ってきても良い」とも「ダメだ」ともおっしゃっていないので、はぐらかしたようなお答えにも聞こえます。しかし、そのように枕する所もないイエスさまであることを承知の上で、考えなさいということでしょう。

 イエスさまが、なぜ枕する所もない道に進まれたのか。神さまの所を出て、家族の所を出て、無一物となられ、枕する所もなく神の国を宣べ伝える働きに出られたのか? それはただ、私たちを救うためにそうなられたのです。この「私」「あなた」を救うために、滅びから救うために、イエスさまはすべてを捨てて、枕する所もなく、来て下さったのです。信じられないような愛で、私たちは愛されているということです。

 イエスさまの弟子となるということは、そのイエスさまの働きに加えていただくということです。私たちも、イエスさまを信じて従って行ったために、余計なことに関わるようなことになるかも知れません。枕する所がないというほどではなくても、他人のために時間をとられ、また労力を使うようになるかもしれません。しかし、そのような面倒くさいことの中で、神さまの奇跡を見ることができるのです。神さま、イエスさまが生きて働いておられる。これは、言ってみれば、この世では枕する所もなく救いのために働かれるイエスさまが、本当に生きて働いておられることを知ることができたと言えます。

 これは教会も同じです。自分の教会がある程度満たされてやっていければそれで良い、ということになると、生きておられる主の働きを見ることもなくなっていきます。しかし、主の御心に従って、福音を宣べ伝えるために仕え続けるならば、そこに生ける主の働きを見ることができるようになります。