礼拝メッセージ(2022年4月3日)
『 神の栄光を求める教会 』
 林健一 牧師 
ヨハネによる福音書 11章:40節

11章 40節:イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

ヨハネによる福音書 11章:40節(新共同訳)

2022年度主題聖句「神の栄光を求める教会」

 ヨハネによる福音書11章はイエスさまがラザロを復活させた奇跡の物語です。ラザロの病気を聞いたイエスさまは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(ヨハネ11:4)

 この「栄光」という字は、重みという語源から来た言葉です。永遠の神の重みがこのラザロの死を通して示されている。これは決してラザロの病気による死が神さまの栄光を表すために利用されているということではありません。11章5節にはイエスさまが「マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とことが記されています。肩を寄せ合うようにして助け合って生きている彼らをイエスさまは心の底から愛しておられました。

 神さまの「栄光」は私たちが考えもしないような人たち、状況から表されるということをラザロ復活物語から教えられます。太田教会に集う私たちにも神さまは「栄光」を表してくださるのです。マルタ・マリア・ラザロはイエスさまには大切な友(ヨハネ11:11)でした。特別な事、立派な事をイエスさまのためにするのでなく友として彼らはイエスさまの心のオアシスの存在でした。私たちもイエスさまにとってオアシスとしての存在でありたいものです。

「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(ヨハネ11:40)
 
 ラザロが死んで墓に葬られてもう四日も立っていました。マルタがイエスさまに、死のにおいがしますと言ったことに対しイエスさまが言われました。マルタは常識的なことを言ったのです。私たちもマルタと同じことをイエスさまに言ったことでしょう。しかしイエスさまがラザロを死から復活させた出来事に大切なことを教えられます。イエスさまの言葉「神の言葉」の響きは誰にも止めることはできないということです。

 よくカトリックでは信仰教理を教える言葉で「カテキズム」というのがあります。ギリシャ語の「カテーケオー」に由来します。意味は「下へ向かって鳴る」です。個人的に私が好きな言葉ですが知らせる、響かせるという意味。まさに神さまの言葉が現実となる。ラザロは死んだけどイエスさまの言葉が死からラザロを復活させました。神さまの「栄光」が現わされたのです。太田教会も神さまの「栄光」を表すことを求めていく群れになっていきたいと祈り願うのです。