礼拝メッセージ(2022年5月15日)
『 投げやりになるな 』
 林健一 牧師 
ルカによる福音書 16章:14節~18節

16章 14節:金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。

16章 15節:そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。

16章 16節:律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。

16章 17節:しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。

16章 18節:妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」

ルカによる福音書 16章:14節~18節(新共同訳)

 ファリサイ派の人たちは「不正な管理人のたとえ話」をする主イエスさまの話を聞いて、「この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑ったと」(16:14)あります。「あざ笑った」というのは「鼻をあげた」という言葉です。ファリサイ派の人たちは主イエスさまの話を「鼻先でせせら笑った」軽蔑の笑いを禁じえなかったのです。

 しかし、軽蔑の笑いを浮かべるファリサイ派の人々に、主イエスさまは彼らの偽善、問題点を指摘します。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」(16:5)大切なこと、わたしたちの心を御存じである神さまの御前に、自分のほんとうの姿がどのように見られているかを知ることです。それは神さまとの交わりに生きている、この世から解放されていることです。

 「人に尊ばれるもの」と訳されているのは「人々の間で高いもの」という表現です。神さまが高く上げられるのでなく人間の間で高く上げられるものに心を奪われる。富や権力、容姿、評判など神さまでないものを高く上げることが不幸を招いているこの世界の現実に気づくべきではないでしょうか。

 ファリサイ派の人々の問題点のもう一つは、律法と預言者の指示しているものを理解していないという点です。主イエスさまはおっしゃいます。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。」(16:16)この時、主イエスさまが福音を宣べ伝えておられる。まさに救い主キリストによってもたらされた新しい恵みの時代が始まっています。「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」だれもが力ずくで神の国に入ろうとしている、入ることができる時代が主イエスさまによって開かれています。

 しかし、神さまがイスラエルの民にお与えになった律法が無効なものになったというわけではありません。むしろ、「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(16:17)といわれます。つまり、天地の続くかぎり律法の効力はなくならない、ゆるがないと、こうおっしゃるのです。

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