礼拝メッセージ(2022年5月22日)
『 死の先に報いはきちんとある 』
 林健一 牧師 
ルカによる福音書 16章:19節~31節

16章 19節:「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

16章 20節:この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、

16章 21節:その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

16章 22節:やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

16章 23節:そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

16章 24節:そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

16章 25節:しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

16章 26節:そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

16章 27節:金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。

16章 28節:わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

16章 29節:しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

16章 30節:金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

16章 31節:アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

ルカによる福音書 16章:19節~31節(新共同訳)

 

 足りない者、小さな者であったとしても主は豊かに用いてくださることのできるお方であることをあらためて教えられます。主が用いてくださる人生は後悔することがありません。なぜなら主がすべてをよきこととしてくださるからです。しかし、主により頼むことをせず自分の思いで歩む人生は実に悔やむことが多いのではないかと思うのです。自分の経験や知恵をもって決断し歩むことは良いように見えて危ういものではないでしょうか。聖書には主と共に歩む決断をして幸いな人生の結末を迎えた人もいます。反対に自分の目に良いように思う道を進んでいき最悪の結末を迎えた人もいます。はじめは同じだったのに、金持ちとラザロのように天と地がひっくりかえるほどの違いです。不正の富を用いてでも自分のために友をつくるがよい。と言われたイエスさまの話を嘲笑ったファリサイ派の人たちに向けて今日のお話をされます。彼らは「律法と預言書」を持っていながらどう人生を歩んでいけばよいか、神さまがそこに書いてくださった真の目的を知ることができないでいました。御言葉をもっていても虚しい人生を歩むことがあるのです。

 主イエスさまはラザロと金持ちの話を通して何を伝えたかったのでしょうか。金持ちであることを否定し皆がラザロのような貧しくて物乞いのような生き方をするようにと望まれたのでしょうか。そうではありません。神さまとの関係をいっているのです。ラザロは自分から好んで貧乏人になり進んで全身できものだらけとなったわけではありません。ただ、その名が象徴しているようにラザロは貧しく悲惨な境遇の中にあっても神さまを助けとして生きてきた人物ということでしょう。ラザロは金持ちや周囲の人々になめられ、犬にもなめられっぱなしという人生を送りました。人の目にはただ哀れな人生としか写らなかったかもしれません。しかし、神さまの目には助けを叫び求めている信仰の人として写ったのです。私たちの人生が人の目にどう写るかでなく神さまの目にどう写っているのか、このことが大切なのです。私たちは忘れてはなりません。神さまの目が注がれているなら私たちの人生は価値ある人生なのです。

 
 

お知らせ

前の記事

5月22(日) 主日礼拝
お知らせ

次の記事

5月25日(水)祈り会