礼拝メッセージ(2023年2月26日)
『 過越が成し遂げられるまで 』 林健一 牧師
ルカによる福音書 22章:14節~18節

22章 14節:時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。

22章 15節:イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。

22章 16節:言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」

22章 17節:そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。

22章 18節:言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

ルカによる福音書 22章:14節~18節(新共同訳)

 15節で主イエスはこう言っておられます。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」。この「切に願っていた」という言葉は原文においては、「熱望する」という言葉が二度繰り返されている珍しい形になっています。つまり尋常でない激しく強い願いを示す言い方です。その感じを出して訳すには、「切に切に願っていた」と「切に」を繰り返した方がよいのかもしれません。この過越の食事は、主イエスさまの強い強い願いによって行われているのです。

 主イエスさまは弟子たちとこの過越の食事をすることをなぜそんなに強く願われたのでしょうか。主イエスは勿論、これが弟子たちと一緒に取る最後の食事となることを知っておられました。これが最後の、お別れの食事になるから、ということも言えるかもしれません。しかし主イエスさまの強い願いはそういうことから来たのではないことが、この食事の席でのお言葉から分かるのです。先ほどの15節に続いて16節では、「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と言っておられます。このことが、弟子たちと共に過越の食事をしたいと切に願っておられたことの理由なのです。

 16節の方では、「神の国で過越が成し遂げられるまで」と言われていたことが、18節では「神の国が来るまで」と言い換えられています。神の国が来るというのは、神さまによる救いが完成することです。その救いの完成のことを主イエスさまは、「神の国で過越が成し遂げられる」と言い表しておられるのです。過越とは、先ほど見たように、エジプトの奴隷状態にあった民が、主なる神さまの大いなるみ業によって解放され、救われたということです。その過越が成し遂げられるということは、過越のみ業はまだ完成していないということです。それは成し遂げられ、完成されなければならない。それが成し遂げられ、完成されることによって神の国が来るのです。

  「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」これは言い換えれば、神の国が来たときにはまた共に食べよう、ということになるでしょう。これは神の国が必ず来る。すなわち、イエスさまの十字架によって罪が赦され、そのイエスさまを信じることによって新しい神の民とされる契約が結ばれ、そして永遠の神の国の希望が与えられている。それが主の晩餐式が指し示していることです。すなわち私たちの希望のすべてがここにあるということです。