私の顔を見てる?

都内に仕事で電車に乗っているとほとんどの人たちがスマホを見ていることに気づく。無言で誰と話すこともなく一日過ごす人もいるのではないだろうか。聖書では神様が人と対話するとき顔と顔をあわせて話される。人は直接顔をあわせて対話する存在として神様に創造された。顔と顔をとおして見えない心に感じるものがあるからだ。子どもは親に「見て、見て」と訴える。自分の存在がおぼえられていることを知って安心したいからだ。無関心な中で育った大人は孤独と不安になり、常に自分を誰かに知ってほしいと叫ぶ。そして人や物事に無関心だ。なんと言っていいかわからない。心の空洞は神様と愛する家族、人によってでしか満たされないからだ。教会では週一回必ず顔と顔をあわせて共に神様を礼拝する。めんどくさいかもしれない。しかし人は顔を見られずして生きていくことはできないのだ。