礼拝メッセージ(2018年5月6日)

「その兄弟のためにも」

聖書・コリントの信徒への手紙Ⅰ:11章17節~34節

林 健一 牧師

 

乱れた礼拝(主の晩餐)

コリント教会はたくさんの問題がありましたが礼拝においてもいくつかの誤った理解がありました。11章(聖書・コリントの信徒への手紙Ⅰ)では礼拝のあるべき姿勢についてパウロは教えます。はじめに礼拝でのかぶり物について、それから今日の本題である「主の晩餐」についてです。パウロは手紙の中でも「主の晩餐」について詳細に述べています。それだけ「主の晩餐」は教会にとって大切なものだということです。主の晩餐は目で見る福音と言われています。なぜなら主の晩餐式で私たちはパンとぶどう酒をいただきます。それは目で見て、手でさわり、舌で味わうことによって、主イエス・キリストの十字架を思い起こすことになるからです。初代教会の主の晩餐は教会での会食(愛餐)と一緒に行なわれていました。聖書・使徒言行録2章46節「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」とあります。初代教会の信徒たちは各自が食事を持ち寄り、互いに分け合って一緒に食事をして主の晩餐式をしました。そこには主の愛で結ばれた者たちであることを喜び、キリストの犠牲の死を覚え、感謝するという大事な時、場所であったのです。

しかし、コリント教会において恵みを受ける集まりが問題を起こす集まりになってしまっていることにパウロは彼らを叱責しています。パウロは彼らの集まりが「主の晩餐」ではなくなっていると叱責しています。なぜなら、主の愛によって一つとならなければならず、いや、一つとされていることに感謝しなければならないのに、「お互いの間に仲間割れ」(聖書・コリントの信徒への手紙Ⅰ:11章18節)がありました。また、イエス様が十字架で与えてくださった愛をお互いに実践していくための集まり「主の晩餐」が貧しい人々を軽んじている状況になっていました。この状況にパウロは「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」(聖書・コリントの信徒への手紙Ⅰ:11章22節)と主イエス・キリストの十字架の死を無駄にするのかと厳しく叱責しているのです。

私たちはどうでしょうか?コリント教会のように「仲間割れ」や「兄弟愛の欠如」はない。と言うかもしれません。しかし、パウロの「だれでも、自分をよく確かめたうえで」(聖書・コリントの信徒への手紙Ⅰ:11章28節)の忠告を自分に当てはめてみるとき、主の十字架における死の犠牲と愛に当たり前のようになっている自分がいるのではないでしょうか?今一度、私たちも今日コリント教会に与えられた御言葉をとおして自分の主に対する姿勢をふり返ってみましょう。