礼拝メッセージ(2019年5月5日)

『 二 人 と も 神 の 前 に 』 ルカによる福音書 1章:5~7節 牧師 林健一

 本日、神さまのまえに二人の人が登場します。アビヤの組の祭司ザカリアと妻エリサベト、彼女はアロン家の娘でありました。出エジプト記にモーセの兄であるアロンの子孫です。
ザカリアの名の意味は「ヤハゥエは覚えていてくださった」あるいは「思い出してくださった」。エリサベトは「わたしの神さまは、その方によって誓うべきところのお方である。」二人とも神さまと深い関係にある名がつけられています。二人がともに寄り添いながら神さまのまえを歩んでいく姿が6節に描かれています。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」
この姿は何を意味しているでしょうか。二人が神さまの掟を守って正しい人として歩んでいた。と捉えるのは人間的な見方です。聖書には正しい人はひとりもいないと言っているのですから。二人は「主の定めと掟の中に入り、守られつづけて」というのが正しいのではないでしょうか。ヘロデがイスラエルを支配していた時代、本当の意味で神さまと共に歩んでいる人は少なかったように思います。政治的にイスラエルの解放を求める意味で神さまからの救い主を待ち望んでいた人たちもいますし、ファリサイ派の人たちは神さまの意志とは関係なしにこうすれば自分たちは神さまに受け入れられるといった自己満足的な信仰の持ち方。あるいはサドカイ派の人たちのように世俗とうまく渡り合ってそこそこ生きていく信仰のあり方。
大多数が大きな時代の流れにのかってしまっているようなことは、イエス様の時代も現代もさほど変わらないと思います。人はそれほど流される存在です。そのなかで信仰に生きる二人の生きざまは当時の人たちから見れば愚かにも、なんという生真面目、いまどき本気で神さまを信じている生き方をしているような人たちがいるのだ。ある意味で貴重な存在だと。そこには嘲笑、自分たちとは違うのだということもあったでしょう。しかし、神さまから見たとき、後の時代から見たとき、それは何と豊かで価値ある人生であったか。そう神さまから評価されているのです。
本当に私たちは価値ある、まことに豊かな人生を送りたいと願っています。聖書はそのような人生は神さまのまえに立ち続けることだと言います。ハイデベルク信仰問答の第一問に対する答え、「生きるにしても死ぬにしても、私の人生における唯一の慰めは、私がイエス・キリストのものであるということです」。キリストを信じる者にはこのような確かな慰めとイエス・キリストのものとして生きる使命が与えられています。