礼拝メッセージ(2019年7月14日)

 『 生まれる子は神の子 』  ルカによる福音書1章:30~33節  牧師 林健一

 先週は受胎告知のはじめの箇所を読みました。天使ガブリエルがマリアに告げた「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(1:28)という言葉の意味について共に考えました。
 「恵まれた者」は同時に、「主が共にいて」くださらなければ進んでいくことができないような使命を負わされる者であるということ。また「主が共にいる」ということは、それは確かに恵みではあるけれども、同時に、重い責任とつらい戦いを投げかける言葉でもあるということを学びました。この後、マリアは確かに神さまからの恵みを与えられた者として、そしてイエス様の母であるがゆえに辛い思いをしなければならないことがありました。シメオンがマリアに言った「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(2:35)。を経験したのです。
 私たちクリスチャンも神さまに救われ、愛されている存在です。しかし、同時にこの世(神さまを神さまとしないこの世界)から私たちは憎まれている存在であることも聖書は私たちに教えているのです。神さまの御心に従えば従うほど世から迫害を受けます。しかし、そのことをとおして神さまの愛が豊かにこの世にあらわされることも私たちは覚えたいと思います。
 神さまは、ただ私たちに責任という重荷を与えるだけのお方ではありません。それ以上の恵みを与えるお方です。今日は、そのことを学んでいきたいと思います。私たちがこの世でクリスチャンとして歩むためにはこの世の中で神さまのみ心を成し遂げていくための賜物が必要です。恐れているマリアに天使ガブリエルは「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(1:30)。「〔もはや〕恐れるな、マリアよ、なぜなら、あなたは神のもとで恵みを得たのだ。」とすでに十分な恵みを与えられていることに気づくようにと語りかけます。恵みというのはその人の値なしに神さまから与えられる贈り物(カリスマ)です。 私たちは信仰の世界に生かされていることに気づかなければなりません。神さまを信頼するところに自分の拠り所を置かなければなりません。
 聖書が私たちに語る「恵み」というのは、与えられてラッキーというものでなく、これこそを私の拠り所として生きるというものです。信仰者として生きていくものとして絶対不可欠のものです。信仰者であるなら「恵み」を知らなければなりません。マリアは「恵み」を神さまから与えられました。どのような「恵み」をいただいたのでしょうか。
 それが31~33節のみ言葉です。あなたから生まれる子「イエス」と名付けられる者は、「神の子」でありメシア(救い主)となって永遠にこの世界を治められる。「マリア、あなたは神さまの恵みによってメシア(救い主)の母となるのだ」という宣言でした。マリアは資格とか能力とか、そういうものとは関係なしにメシア(救い主)の母となりました。そのように神さまから選ばれたのです。ただ「恵み」によって選ばれたのです。