礼拝メッセージ(2019年9月8日)

『 生涯、主に仕える喜び 』 ルカ1:72~75  牧師 林健一

 ザカリアの預言、ベネディクトスの第一の段落、68節から71節まで前回学びました。「救いの角」によってもたらされます救いの消極的な面を学びました。とりこになって無力な私たちを「解放する」、贖いだす、また「敵の手から救う」、救出する、そういう面であります。今日は、第二の段落、72節から75節までを学びたいと思います。「我らの父アブラハムに立てられた誓い」によってもたらされる救いの、今度は積極的な面が語られているところです。「恐れなく主に仕える」生活、「生涯、主の御前に清く正しく」仕える生活を許されるようになる、そういうところであります。神さまに恐れないで仕えていく、生涯、神さまの御まえに清く正しい生活を許されるようになることも救いであり、恵みであることを私たちは知りたいと思います。

聖なる契約と誓いを覚えてくださる私たちの主
 「我らの先祖を憐れみ」の「憐れみ」という言葉はギリシャ語で「エレオス」と言います。「恵み」(カリス)が神さまの動機なら、「憐れみ」はその思いが行動として現されたものといってよいでしょう。ですから、ここでの「憐れみ」というのは神さまが単にかわいそうだと思うのでなく、神ご自身の真実さ、誠実さ、契約を守る神さまの忠実さを行動でお示しになったという意味なのです。その「聖なる契約を覚えていてくださる」の「覚える」「思い出す」というのは「効果をあらしめる、実行に移す」という意味です。ですから「契約を忘れることのないために」とも訳されます。アブラハムに立てられた誓いがずっと寝ていた状態だったけど神さまは忘れずにいてくださった。今それを「実行に移す」時が来たというわけです。

敵の手から救われ、恐れなく主に仕える
 では「アブラハムに立てられた誓い」とはどういう内容なのでしょうか?第一に74節「敵の手から救われた結果、恐れなくさせる」ということです。第二に75節「一生涯、主の御前に清さと正しさにおいて彼に仕えさせること。」です。他の訳では「聖と義にあって仕える」となっています。「聖」とは取り分けられる。「義」とは神さまのみ前においての身分の回復です。私たちは罪のままでは神さまに仕えることはできません。神さまのものとなって、身分が回復されてこそ仕えることができるのです。それが今起ころうとしていることをザカリアは賛美しているのです。ここでザカリアが言っている、アブラハムへの誓いによって私たちにもたらされる救いの第一点は、主を信じる者たちが、広い意味での心配とか気兼ねとか恐れなしに伸び伸びと自由にされるということです。私たちから「恐れ」を取り去ってくださる主がおられることを知りたいと思います。主が「恐れ」を取り去ってくださるのは私たちが主のように愛することができる。ためなのです。いま私たちは恐れなく神さまと隣人を愛し仕えることができるのです。

生涯、主の御前に清く正しく
 神さまが私の生涯に亘って御前に立ち続けてくださる、決して私たちを放り出すことのない主に私たちは仕えることのできる喜びの中に置かれているのです。主に感謝して歩み続けてまいりましょう。