礼拝メッセージ(2020年10月26日)

『 御言葉への信仰 』  ルカによる福音書 7章:1~10節 林健一 牧師

 女性連合が発行している「世の光」10月号のこひつじ会例会のコーナーでヨハネによる福音書1章1節のみ言葉「初めに言があった」と書いてあります。なぜ「言葉」ではなくて「言」なのでしょうか?子どもたちと一緒に考えてみましょう。というテーマでした。確かに、どうして「言葉」でなくて「言」なのでしょうか?不思議に思います。ヨハネを続けて読んでいくと3~4節「万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と「言」についてヨハネはこう書いています。

 ヨハネが「言」について語るとき私たちが日常で話す「言葉」でなく特別な存在であると語っています。ヨハネは「言」がイエス・キリストであると言います。イエスさまのうちには永遠の命があります。それは私たちを真に生かす光であり、命であることを語ります。イエスさまが語る言には命があり、現代に生きる私たちをも生かすのです。イエスさまの言はどのようにして私たちを生かすのでしょうか?今日読んだ聖書にはイエスさまの「言」によって愛する部下の病が癒され、神さまの愛を知った百人隊長が登場してきます。

 イエスさまは「平地の説教」の後、カファルナウムに入られました。この町にいたある百人隊長から、イエスさまのもとに使いが来たのです。彼の部下が病気で死にかかっていました。何とかして助けたいと思って彼は、当時評判になってきていたイエスさまのお力にすがろうとしたのです。そのために、ユダヤ人の長老たちに頼んで口添えをしてもらったのです。イエスさまはその願いを聞いて彼らと一緒に出かけられました。ところが、百人隊長の家の近くまで来た時、今度はその友人たちがやって来て、「主よ、ご足労には及びません」と言ったのです。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と彼は言っています。彼がイエスさまを家に迎える資格がないのは、彼が異邦人だからです。神さまの民であるユダヤ人の一員ではないからです。

 異邦人である自分と神さまの民とを隔てる一線を深く意識しつつ、それでも彼はイエスさまに、自分の僕を病から救って下さるように願いました。彼は、イエスさまこそ人を本当に救う力を持っている方だと信じていたのです。この葛藤の中で、彼は一つの活路を見出しました。彼は友人たちを通してイエスさまに、「ひと言おっしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください」と願ったのです。イエスさまに来ていただくことも、自分が出かけていくことも、どちらも自分にはその資格がない。しかし、ひと言お言葉をいただくだけなら、異邦人である自分にもできる、そしてそのお言葉さえあれば、僕の病気は癒される、そう彼は思ったのです。イエスさまがひと言お語り下さればそれは実現する、というみ言葉の権威と力への信頼を彼は抱いていたのです。イエスさまは百人隊長の言葉を聞き、深く感心されました。イエスさまが人間の信仰に感心するのは福音書全体を通じてこの1回だけです。「これほどの信仰は見たことがない」「イスラエルの中でさえ見ない」と驚くのです。

 イエスさまが語るみ言葉にもっともっと耳を傾けていきましょう。信頼していきましょう。胸躍らせましょう。「主を信じる者は、だれも失望することがない」(ロマ10:11)聖書はそのように語ります。それが世界で、教会で、私の人生で起こるのです。神さまの言葉は必ず実現する。それが私たちの希望です。