礼拝メッセージ(2020年11月1日)

 『 もう泣かなくともよい』  ルカによる福音書 7章:11~17節  林健一 牧師

 カファルナウムでの癒しの出来事からほどなく主イエス様と弟子たち一行はナインという町に行かれました。入ろうとした町の門から、ちょうど葬りのための行列が歩いて出てくるのに、彼らは出くわしました。当時の町は城壁で囲まれており、町の出入りはこの門を通して行われていました。門の外に出るということは生活の営みから出ることを意味します。門の外は、人々が安心して住み、人と人との交わりが結ばれている、そういう社会からは切り離され、隔てられた世界なのです。今、そこに向かって、亡くなった一人の青年の葬りが行われようとしているのです。その葬式の行列の前に立たれ、向き合われたお方が、主イエス様でした。棺に寄り沿い激しく泣きながら歩いてくる一人の女性を御覧になって、主はこのやもめが息子を失ったのだという事情をすべてご理解なさったに違いありません。そしてこの母親を見て、憐れに思われたのです。激しく心を揺さぶられたのです。この「憐れに思い」という言葉は、「はらわたが引きちぎれるような思いを持って相手の思いを分かち合う」という意味を持つ言葉です。主はここで、「はらわたが引きちぎれるような思い」をもってこのやもめの思いを共有し、その痛みと嘆きを共にされたのです。この女性を深く心にかけて、近づいていかれたのです。この世の営みと交わりから切り離された荒れ野の中にこの息子を葬るために、門の外へ出てきた行列。それは誰にも止められない、死の力に支配された行列です。その前に近づき泣き続けている彼女に主はおっしゃったのです。「もう泣かなくともよい」(13節)。「もう泣き続けるのはやめなさい」、主は悲しんではならないといってはおられません。泣きなさい、悲しんでいい。しかし泣き続けるのはもうやめなさい。これはどういう意味なのでしょうか?

 そして主は棺に手を触れられて、この誰にも止めることのできないはずの死の行進を押しとどめるのです。死んで葬りに行く、この行列を止まらせるのです。そして宣言するのです。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)。この言葉は他の誰も言うことができません。主イエス様だけがおっしゃることのできる言葉です。この出来事を目の当たりにした人々の中に恐れが生まれ、また神を賛美する声が湧き上がります。詩編139編8節を読みますと主の普遍的臨在が記されています。

天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。

 死の行進をまえに私たちの主が既に先回りしておられる。そこで待てといわれる。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われるのです。それは私たち一人一人の人生の行く道においても既に先回りして待っておられるのだと宣言されるのです。死に向かう私たち人間、誰も止めることができない死の行進を止められるお方がいま、私と共におられます。

 主イエス様は息子の母親に「もう泣かなくともよい」と言われました。泣かないでくれと頼んでいるのではない。泣くな、命令なさった。泣くな、という涙を打ち払う力を持った言葉を語られたのです。私たちの歩みには何と涙を流すことが数多くあることでしょうか。何と一瞬にして人生で築いてきたものがあっと言う間に奪われてしまうことが数多くあることでしょうか。この世の抗えない力によって行かされることもある私たちです。しかし主イエス様は私たちの行く道の行くところに必ずおられます。悲劇の主人公のごとく泣いている私たちに向かって「もう泣くな、泣き続けるのはやめなさい」と言われます。そして主が私たちの道を新たにつくってくださるのです。