礼拝メッセージ(2020年11月8日)

『 来るべき方 』  ルカによる福音書  7章:18~23節  林健一 牧師

洗礼者ヨハネの問い 
 今日読んだ箇所で洗礼者ヨハネが再び登場します。本日の箇所は、そのヨハネから一つの問いが、二人の弟子たちに託されて主イエスさまのもとに寄せられたことを語っています。それは、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(19)という問いでした。

ヨハネの思い 
 ヨハネはどうしてこのような問いを主イエスさまに投げかけたのでしょうか。ヨハネは、主イエスさまこそ「来るべき方」であることをよく知っていたはずなのです。ヨハネは今、牢獄の中にいます。ヘロデによって捕えられ、監禁され、いつ殺されてしまうか分からない状況にいるのです。ヨハネはこの先どうなってしまうのか。不安と恐れのなかで神さまに対する信頼への心が大きく揺れ動いていたのではないでしょうか。

あなたは本当に私の救い主なのか? 
 ヨハネはここで何を問うているのでしょうか。ヨハネが問うているのは、本当の救い主は誰なのか、ではなくて、「主イエスよあなたは本当に私の救い主なのか」ということだったのだと思うのです。彼は獄中で主イエスさまの活動のことを聞きました。主イエスが病気の人を癒し、死んだ人を復活させたことを聞きました。主イエス様が救い主としてのそのようなすばらしい働きをしておられることを知ることによって、彼の心の中で、かえって一つの問いが大きくなっていきました。それは、このような大きな力を持っている方である主イエス様が、それでは自分に対しては何をして下さるのだろうか、という問いです。

わたしの問い  
 それは、私たちがしばしば味わう動揺であり、私たちが主イエスさまに発する問いでもあると言えるのではないでしょうか。イエス・キリストのみ言葉やみ業は確かにすばらしい、力ある方だということも分かる、しかしこのイエスは、この私に今何をしてくれるのだろうか、この私が今苦しんでいること、抱えている問題、背負っている悲しみに対してどんな救いを与えてくれるのだろうか…

主イエスさまの答え
 
 ヨハネの問いに「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(22)。私がこれらのことを行なっていることをあなたがたは見聞きしている、それをそのままヨハネに伝えなさいと主イエスさまはおっしゃったのです。福音が告げ知らされること、それこそが、主イエスさまによってもたらされている救いの中心なのです。神さまが、貧しい人、苦しみや悲しみの中にある人に、救いの到来を告げる福音、喜びのおとずれを知らせて下さる、そのことが主イエスさまによって実現しているのです。このことをヨハネに伝えなさい、と主イエスさまはおっしゃったのです。
 主イエスさまは、「わたしにつまずかない人は幸いである」(23)とヨハネに問います。これは私たちに対する問いかけでもあります。あなたは、貧しい人々に福音が告げ知らされているという事実の中に、あなた自身の救いを見るのか…。確かに私たち個人の具体的な苦難に救いは必要ですし神さまはあなたの苦難をほっときはしません。しかし、主イエスさまの御心は私だけでなく私と同じように貧しい人々に福音が告げ知らされることにあるのです。私たちは自分の苦難に打ちひしがれてしまうこともあります。しかし福音によって私たちはこの苦難を乗り越えていくいや乗り越えていくことができます。来るべき方は私の救い主でもありますがすべての貧しい人々のための救い主であることを忘れてはなりません。