礼拝メッセージ(2020年11月22日)

『 今の時代を嘆くイエス 』  ルカによる福音書 7章:29~35節 林健一 牧師

 先週のメッセージをとおしてイエスさまはすでにこの世界は神の恵みのただ中にあるのだと宣言なさいました。私たちは神の国の恵みのなかにどっぷりとつかっているのだとその幸いに感謝していくのです。しかし悲しいかな、今日の聖書箇所でイエスさまは救いの言葉を前にしても受け入れようとしない頑なな心を持つ今の時代を嘆いています。

「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。」(29・30)
 何が人々の心を頑なにさせ、救いのメッセージを受け入れさせないのでしょうか?
人々の心を神さまに向けさせないものとは何なのでしょうか?

「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。」(31)
 イエスさまは、今の時代の人々が、「広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている」(32)と言われます。続けて「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」(32)と言われました。笛を吹いても踊らず、葬送の歌がうたわれても泣いてくれない。そんな光景が思い浮かばれます。おもしろくないとふてくされる子どもたち。今の時代の人たちは、それと同様であるとイエスさまはおっしゃいます。

 洗礼者ヨハネもイエスさまも、共に神さまがお遣わしになった。しかし、彼らは両方とも受け入れなかった。なぜ、ユダヤ人の指導者であったファリサイ派や律法学者たちは、ヨハネのこともイエスさまのことも受け入れなかったのでしょうか。受け入れない。こうだと決めつけてしまう人間の心が持つ頑なさは容易に神さまの救いを受け入れることはできない悲しい現実です。冷ややかで頑なな心は一度にしてなりません。人生のなかでその心は作られてきます。その人が味わった痛みや孤独などが冷ややかで頑なな心を作ってしまったのです。私たちの冷ややかで頑なな心をどうすれば溶かすことができるのでしょうか。

 イエスさまはおっしゃいました。「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」(35)。では神の知恵が持つ正しさとは何でしょうか?それは父なる神がキリスト・イエスさまによって、私たちを救う。イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪を赦し、私たちを救うという神の知恵です。いまこの世界は愛に飢えた孤独な世界です。人々はますます心を冷えさせ頑なにしています。イエスさまはこの世界を見て嘆いておられるのです。愛を感じることのない、体験できないこの世界を嘆いておられます。それゆえに来られたのです。イエスさまは知恵に従う人たち、私たちが知恵を証明することを求めています。私たちはどうやって神さまの愛を人々にあらわすことができるでしょうか。主に依り頼み愛に生きることこそ知恵の正しさを証明できます。イエスさまの愛を証ししていく者として用いられる者となっていきましょう。