礼拝メッセージ(2020年3月29日)

『 主の恵みの年を告げる 』 ルカによる福音書 4章:16~21節  林健一 牧師

 イエス・キリストが聖霊の力に満ちて「ガリラヤ」の「諸会堂」で教えになったことを前回学びました。この聖霊の力に満ちたイエスさまが会堂で教えられた実例として、16節から、故郷「ナザレ」の会堂での集会の出来事が記されています。ここで初めてわたしたちは、公の活動に入られたイエスさま御自身の言葉を聞くことになります。大変興味深くかつ慎重に学んでいきたいと思います。そこで16節から30節までのナザレの会堂での安息日の出来事を三回にわたって学んでいきたいと思います。
 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。(4:16・17)
 イエスさまは安息日に、いつものように礼拝をするために会堂に入り、聖書朗読をされました。律法の書の朗読が終わり続いてイエスさまが預言者の書の一部を読むために席から立ち上がられました。ちょうど次のように書いてある箇所が目に留まりました。その箇所とはイザヤ書61章1~2節でした。救い主についての預言が記されている箇所を読み始めました。
 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」(4:18・19)
 第一に、貧しい人に福音を告げ知らせるため、第二は、捕らわれている人に解放と目の見えない人に視力が回復するため、第三に、圧迫されている人を自由にするために、そして第四に、以上の三つをまとめて「主の恵みの年」(ヨベルの年、レビ記25章)の到来を告げ知らせるためです。このために自分は父なる神さまから油そそがれたイエスさまはおっしゃっています。ヨベルの年とは「雄羊の角」(ヨシュア記6:4)という意味ですが、転じて「雄羊の角でできた角笛を吹いて始まる解放の年」を意味するようになりました。この年は50年ごとに訪れ、その年には、出稼ぎの人々も自分の家族のもとに帰り、売られた土地も元の所有者に返され、奴隷も皆解放されました。
 イエスさまは「主の恵みの年」を告げ知らせるために来られました。「告げ知らせる」とはただ「告げる」ことではなく王の命令を布告するという意味があります。ただの人の言葉でなく王としての神さまの言葉をイエスさまは告げられたのです。わたしたちは王である神さまの言葉を時の為政者たちの言葉以上に畏れを持って受取っていきたいと思います。「主が恵みをお与えになる年」(イザヤ61:2)という言葉は、実は神さまの喜びの年、あるいは神さまの受け入れの年という表現で、喜びを受け入れてくださるという言い回しです。神さまはわたしたちが罪からの解放、さまざまな抑圧から解放される喜びを受け入れてくださっていることを知りたいと思います。わたしたちが自由にされることこそ神さまの喜びなのです。
 イエスさまは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4:21)と宣言されました。イエスさまは「自分の考えを述べたのではなく、自分自身を伝えた」(ルナン)です。そして「今日」(セーメロン)という言葉は、いつでもある「今日」(クロノス)ではく今この日です。人々はイエスさまの言葉を聞いて驚きました。それは神さまの救いを得るためにはこうしなければならないという律法の教師がいままで言ってきたものでなくイエスさまの口からは、神さまがその民に与えようとしておられる「恵み」が語られたからです。イエスさまがわたしたちに語られるただ恵みの言葉を聞き、喜びをもって受取っていきたいと思います。