礼拝メッセージ(2022年3月27日)
『 悔い改める一人の罪人 』
 林健一 牧師 
ルカによる福音書 15章:1節~10節

15章 01節:徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15章 02節:すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15章 03節:そこで、イエスは次のたとえを話された。

15章 04節:「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15章 05節:そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15章 06節:家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15章 07節:言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

15章 08節:「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

15章 09節:そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15章 10節:言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

ルカによる福音書 15章:1節~10節(新共同訳)

 「神は人間が生み出した妄想に過ぎない」という意見をよく耳にします。しかし、その言葉はあながちすべてが間違っているとはいえないように思います。
 罪深い人間というものは、実に自分勝手です。自分の都合の良いように神の像を描いてしまいがちです。自分に味方して他人を裁いてくれる神であったり、自分が嫌いだと思うことを、同じように嫌ってくれる神であったり、あるいは自分自身を受け入れられない自分を、同じように受け入れてくださらない神であったり、結局は自分の小さな分身のような神をまことの神と思いこんだりしまいがちです。

 しかし、まことの神を知りたいと思うなら、神ご自身がご自分を表す言葉や業に心を留めるよりほかはありません。神の啓示によってしか神を知ることはできないのです。聖書を読むということは、自分が期待する神の姿を聖書に読み込むことではありません。その反対で、神がどのようなおかたであるかを、神の言葉である聖書自身に語らせることなのです。

 きょう取り上げる個所には、神とはどのようなお方であるのかが描かれています。しかし、その神の姿は、イエス・キリストの時代のある人々には思いもよらない姿でした。

 今日から取り上げようとしているルカによる福音書の15章には、同じ主題をもった譬え話が三つ連続で語られています。一つは「見失った一匹の羊のたとえ」です。もう一つは「無くした銀貨のたとえ」です。そして三つ目は、来週取り上げようとしている有名な「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるたとえ話です。どれも失われたものに対する神さまの愛が印象深く例えられています。

 そもそも、これらのたとえ話をイエスさまがお語りになったのは、罪人を受け入れて一緒に食事をしているイエスさまに対して、ファリサイ派の人々や律法学者たちが不平を漏らし始めたからです。

 その罪人呼ばわりされているイエスさまのまわりに集まった人々というのは、イエスさまを非難したファリサイ派の人々や律法学者たちとは違って、少なくとも「聞く耳のある者は聞きなさい」(14:35)と言われたイエスさまの言葉を真摯に受け止めて、話を聞こうとしてイエスさまに近寄って来た人たちです。

お知らせ

前の記事

3月27日(日)主日礼拝
お知らせ

次の記事

祈り会