礼拝メッセージ(2021年3月7日)

『 泣くな。死んだのではない 』 ルカによる福音書 8章:49~56節  林健一 牧師

 さて、会堂長でありますヤイロにとっても、真に思いがけないこと、予期せぬ出来事が起こっていきます。主イエス様がこの12年間も病気であった女性と関わっていた。思わぬところで足止めくらった。ヤイロはやきもきしていたことでしょう。ひとり娘が亡くなったのです。死んでしまったのです。その時の様子を49節、「イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人がきて、『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と家から使いの者が来て言った。

 50節「恐れることはない。ただ信じなさい(命令形)。そうすれば、娘は救われる。(未来形)」主イエス様はここではっきりと「私を信じろ」と命令しているんです。私を信じるなら必ず娘は直るだろう。とそう宣言されます。主イエス・キリストのなさることでなくご自身を信じることがキリスト信仰だということがここで教えられます。もう一つ、そもそもキリスト信仰は信じる、信じない この二つのどちらかということ単純なことだということです。

 「娘よ、起きなさい(目を覚ましなさい)」と呼びかけられて、死の世界から救い出されました。「霊が戻って、すぐに起き上がった」とあります。「霊」というのはギリシャ語で「プニューマ」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言います。この二つの言葉にある意味は神様とのかかわりを持つことが許されている存在としての重要な語彙です。聖書は主イエス様が人を生き返らせることは肉体が生き返るだけでない、神様とのかかわりを持つ者だからこそ人は生きる者とさせられるのだ。

 娘が生き返って両親は喜んだでしょう。けれども、やがては、また死んだのです。けれども死の向こうで主イエス様が十字架かかってくださって死を打ち破ってよみがえってくださいました。今も生きて働いておられる主イエス様が私たちと共におられるのです。私たちにもよみがえりの命を与えてくださっているのです。ただ、私たちは主イエス様の救いへと招かれています。主イエス様にすべてを委ねる時に絶望からも解放されるのです。