礼拝メッセージ(2019年2月17日)

『あなたは聖書をどう読んでいるか』 ルカによる福音書 10章:25~37節 牧師 林 健一

 福音宣教から帰ってきた弟子たちにイエス様は「悪霊があなたがたに屈服するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)と言われました。

 私たちは信仰することによって、こんなことができるようになった、あるいは病気をなおしてあげることができたなどと言ったりします。しかし、クリスチャンにとっていちばん喜ぶべきことは、私の名が天に記されているということなのです。私という小さな存在であっても神様に覚えられ、愛されているということが何よりも大きな喜びであり、福音なのです。

 「多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず」(25)彼らが見たかった新しい世界が、イエス様によって開かれて私たちは見ることができるのです。しかし、私たちはしっかりとその神の国を見ているでしょうか。喜びを味わっているでしょうか。いまだに古い自分たちの世界の視点で福音を見ようとしていないでしょうか。

 イエス様を試そうとして「永遠の命」について質問した律法の専門家も自分が持っていた価値観や信仰のゆえにイエス様の福音を理解することができなかったのかもしれません。その質問とは「先生、何をしたら、永遠の生命を受け継ぐことができるでしょうか」(25)というものでした。イエス様はその質問に直接お答えにならないで、反対に質問してきた律法の専門家に、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(26)律法には何と書いてあり、どう読んでいるのか。と
彼はよく知っている律法を用いて答えました。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』(27)イエス様はこの答えを聞いて、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(28)イエス様は彼が答えた言葉を用いて答えられました。

 「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(28)この言葉で、試す者と試される側の立場が逆転してしまいます。イエス様は律法の専門家に問いかけていらっしゃるのです。答えを知りながらなぜ行なおうとしないのか、と。同時にそのとおりに行えない人間の弱さを教えようとされたのです。私たちは神様を完全に愛することはできないのは、もちろんのこと隣人を自分を愛するように愛することなどできないのです。だからイエス様の十字架による救いが必要なのです。
「しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。」(29)律法の専門家はイエス様に挑戦する質問をしたのでした。イエス様は彼と議論をするのではなく「隣人」とは?の問いに対して「よきサマリア人」の例え話を用いて「隣人」とはについて答えられます。イエス様との対話によって律法の専門家は彼に向けられている聖書の愛のメッセージに気づかされていくのです。