礼拝メッセージ(2019年6月30日)

『 目を留めてくださる主 』  ルカによる福音書 1章:24~25節  牧師 林健一

 本日は「目を留めてくださる主」という題にて短い箇所ですがルカ1章24~25節から聴いていきたいと思います。
 私は、いま憲法アクションの働きをしています。次回の7月17日発行ニュースレターには6月22日高松常盤町教会にて開催された集会で発題された内容が記事に掲載されます。そのなかの一文を読んで大変感銘を受けました。「明日(6/23)は「命どぅ宝の日」(「慰霊の日」ではない)」皆さんには何も感じない一文かもしれません。「命どぅ宝」は「命こそ宝」という意味です。先の戦争で数えきれない人たちの尊い命が失われた。私たちは、この方たちの犠牲を忘れないですべての人たちの命が宝とされていくようにとキリスト者としてこの世界の平和のために祈っていく使命が与えられていることをはっきりと感じました。
 「慰霊」という言葉だけに目を留めていたら「命こそ宝」ということに気づかなかったでしょう。私たちの神さまは目を留めてくださる方です。これは確かなことです。しかし、気づかないでいる人たちのなんと多いことでしょうか。それは先のように私たちの目が思い込みや決めつけで神さまのまなざしがどこに、何に目を留めているか知ろうとはしないからだと思います。25節「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め」でくださった。エリサベトの告白から神さまのまなざしについて聞いていきたと思います。
 エリサベトは、身ごもって、五か月の間身を隠していた。(24節)とあります。この間、ちまたの人々は何も知らないで、以前と変わったことは何もないと思いながら、五か月、六か月と、時を過ごしているわけです。当のザカリアとエリサベトにとっては、天使の告げたことが本当に成るかどうか息詰まる思いで時の流れを見届けて暮らした、そういう時間であるわけです。
 キリスト者は幸いな者だと思います。エリサベトが神さまの言葉に目を留めたように私たちも日々、神さまの言葉に目と心を留め続けるときに神さまのまなざしをはっきりと知ることができるのだと聖書は私たちに教えているのです。皆さんが辛い状況や苦しい状況に置かれたとき何に目を留めるのでしょうか?聖書や祈ることに目を留めるのでなく目の前の出来事や他者に目を留めるならそれしか見えてきません。人間とは不思議なもので見ようとするものだけ目は見るのだと思います。私たちは聖書、神さまの言葉をとおして人生を見ていくことを養っていかなければなりません。