礼拝メッセージ(2020年7月12日)

『 人の子は安息日の主 』  ルカによる福音書 6章:1~5節 林健一 牧師

 出エジプト記では奴隷であったイスラエルの民に神さまは安息日を聖なる日として安息の時を過ごすようにと戒めを与えられました。十戒の中に第四番目の戒めとして書かれています。

出エジプト20章8~10節
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」

 奴隷から解放された神の民であり、労働から解放されて安息日には主を礼拝することをとおして自分たちは聖なる民として歩むことを覚える日なのです。これが安息日の意味であり目的です。

「いかなる仕事もしてはならない」 ファリサイ派の人々たち始め信心深い人たちは文字通り安息日をそう守ろうとしました。何が「仕事」に当たるかを明らかにするために議論を繰り返し、39種類の主要な労働が安息日に禁じられるようになりました。さらにはそれぞれの労働について39の禁止事項が作成されるに至ります。全部で1521の禁止事項があったようです。驚くべき細かさです。イエスさまの時代にはまだそこまで細かくなかったようですが、禁止事項の中には例えば刈り入れをすることや脱穀をすることや通常の医療の行為なども含まれていました。彼らにとって安息日は神さまのみ前で解放される日でなく縛りの日となってしまいました。どう守るかに固執してしまうあまり本質を忘れてしまったのです。安息日は恵みでなく守らなければならない日となりました。 

 さて、そのような「安息日」にこんなことが起こりました。
1節 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。/ 2節 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。イエスさまは答えられました。/ 3節 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。/ 4節 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」

 これは旧約聖書サムエル記上21章にあるダビデの話です。ファリサイ派の人々の厳しい追及に対し、イエスさまは旧約聖書にある例を引き、ダビデが律法において祭司しか食べてはならないと定められている供えのパン、つまり神さまに捧げるものとして取り分けられていた聖別されたパンを取って食べ、しかも供の者たちにも与えた。イエスさまはダビデが決まりを破ったということを強調するのでなくファリサイ派の人々に律法が持っている恵みでなく彼らは解釈することだけに陥っているいまの状態を気づかせるために言った言葉ではないかと思うのです。

 これを受けてイエスさまはこう言われます。
5節「人の子は安息日の主である。」
 この言葉は、イエスさまが安息日の律法に勝るものであり、それらの律法がいつ、どこで、どのように適用されるものかを決定できる存在であることを主張しています。「そして、彼らに言われた」の「言われた」は繰り返しされる動詞が用いられています。イエスさまはこのあともご自分が安息日の主であることを彼らに言い続けられたのでしょうか。なぜなのか?ファリサイ派の人々に再び「安息日の主」であるイエス・キリストの言葉を聞きなさい。安息日にあらわされた神のみ心を聞きなさい。ということなのではないでしょうか。ファリサイ派の人々はあの出エジプトにおいて奴隷から神の民としてくださった恵みをもう一度思い起こし自分たちが神の民として歩んでいる恵みに生かされている。「安息日の主」を主として礼拝していく。本来の姿に立ち返ることこそ安息日を守ることに気づかなければいけないのです。私たちはどうでしょうか?「主の日」復活の主イエス・キリストに招かれていまここにいる。私たちも本来の姿に立ち返りつつこの日を喜び、主の民として過ごしていきたいと思います。