礼拝メッセージ(2020年7月5日)

『 新しい酒は新しい革袋に 』  ルカによる福音書 5章:33~39節  林健一 牧師

33節 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
 ユダヤ教では断食は、祈りや施しと並んで、三つの良い業のうちの一つでした。また断食は神さまの前での謙虚な行為として重んじられ、祈願、嘆き、悔い改めなどと結びついていました。苦行は贖罪的効果をもつと考えられるようになっていました。イエスさまの時代には週2回月曜日と木曜日に断食するのが慣習になっていて、断食しないものは律法を守らない者と批判されるようになっていました。レビがイエスさまを招いた日はその断食をする日に当たっていたのでしょうか。「断食日に宴会をするとは何事ですか、それでもラビですか」とファリサイ派の人々はイエスさまに迫ったのです。

34節 そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
35節 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」

 イエスさまは断食を否定されていません。ご自身も神さまとの交わりを豊かなものにすることとして大切にされました。しかし「今は婚礼の時ではないか、断食をするのは悲しみの時であり、今はその時ではない」と言われているのです。このすれ違いはなぜ起こるのでしょうか?彼らの「神の国=救い」について「何が神さまの御心であるのか」に対する理解の違いから来るのです。ファリサイ派にとって神の国=救いに入ることは律法を守っているか、彼らは必死になって律法を守ろうとしたのです。イエスさまにとって神の国に入る人は、イエスさまの招きに応える人です。徴税人としてこれまで罪人として神さまから遠い者とされてきたレビが悔改めてイエスさまの招きに応じたのです。「今日はそのレビが救われた祝宴の日ではないか、祝宴の日に何故断食するのか」とイエスさまは言われているのです。イエスさまは新たに二つの例えを話されました。一番目は「新しい布と古い服はあわない」二番目の例えは「新しいぶどう酒と古い皮袋」の例えです。どちらも新しいものと古いものは相容れないということです。イエスさまが与えてくださる新しい教えとファリサイ派の人々が守ってきた教えは根本的に違いがあるということです。

39節 また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
 当時の宗教的習慣でしょうか、古い秩序になじんでしまったファリサイ派の人々だけでなくイスラエルの人々は、それだけで満足し待望して来たはずの救いがイエスさまによって突如到来するとそれを拒む人々が多いのです。神さまの救いそのものよりも、自分たちが築いてきた救いの準備だけで沢山であると、これまでの宗教的習慣や伝統を重んじるのです。
 ファリサイ派の人々とイエスの福音に生きる人々とは生き方が違います。これは、根本的には「神の国」の理解に対する違いからきます。ファリサイ派の人々は、律法を守ることによって御国に入ろうとします。福音に生きる人々は、イエスさまの到来とともにすでに始まっている神の支配の中に自らの身を委ねます。それは自分の努力によって義を獲得するのではなく、神さまの恵みであるイエスの義による罪の赦しを信じ、罪を心から悔いて、主イエスさまにすべてを委ねるのです。ここにイエスと共に生きる喜びと新しい歩みを与えられるのです。