礼拝メッセージ(2020年7月19日)

『 安息日に許されること 』  ルカによる福音書 6章:6~11節  林健一 牧師

 聖書で神さまがわたしたち人間に求める「正しさ」ですが、詩篇15編1節で「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか」。という問いかけに2節で「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人」と答えています。「正しい」、ヘブライ語で「ツェデク」と呼びますが、これは「前提となる関係において誠実である」という意味です。
出エジプト記19・20章にてシナイ山で神さまはイスラエルと契約を結ばれます。20章2節に「わたしは主、あなたの神」とイスラエルの神となることを契約されるのです。
 神さまとイスラエルの間に契約が結ばれる前提としてお互いに誠実であるということが必要なのです。聖書はお互いの関係が正しくされるときすべてが正しくなっていくと教えるのです。イエスさまに自分たちの正しさを否定されたファリサイ派の人々はイエスさまに激しい憎しみと殺意を抱きます。それはイエスさまとの関係を誠実なものにしようとしなかったことへの当然の結果でした。ファリサイ派の人々のように神さま、人との関係を見直すこと忘れてしまい自分の正しさに走るときに大切なものを失ってしまいます。私たちはどうなのでしょうか?神さまとの関係、また夫婦や親子、あるいはわたしたちの周囲の人たちとの関係において正しい関係を第一に築くことを忘れてしまい、相手に求めることだけになってしまってはいないでしょうか?
 イエスさまはファリサイ派の人々の思いを知ったなかで彼らにこう問いかけます。それは神さまとの関係についてでした。あなたがたが自分の正しさにこれほどまでに執着するのは神さまとの関係が本当は何もない、空っぽだということに気づいていなからではないのか?

9節 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

 安息日に「律法」で許されているのは、とイエスさまは彼らにそう問いました。ここに今日、わたしたちも問いかけていくポイントがあります。「律法」とは神さまがイスラエルにご自分の民として歩むべき指針として与えてくださったものです。「律法」はイスラエルに対する神さまの愛、誠実さがあらわされたものです。イスラエルの民はその応答として誠実に応えていかなければなりません。同じ出来事が書かれているマルコ3章4節で彼らは「黙っていた」。ここに生ける神のひとり子であるイエス・キリストの訴えに黙り続ける、応答することを拒否している人たちがいます。自分たちの正しさに執着するあまり神さまとの関係が死んでしまったのです。彼らの態度にイエスさまは5節「怒り、かたくなな心を悲しんだ」とあります。命のない世界をつくってしまった当時の人々の心の頑なさにイエスさまは怒り悲しんでいます。
 「安息日に許されること」結局のところ、神さまとの対話のなかで一人一人が聞いていくことなのです。自分で納得させるということではないのです。安息日はヘブライ語で「シャッバス」と呼びます。それは「断ち切る」ということです。何を断ち切るのか?自分というエゴを断ち切って「わたしの神さま」となってくださった父なる神さまにひたすら心を向ける。このことでしか私たちが本来の姿を回復する道はないのです。 主イエス・キリストが「手を伸ばしなさい」と言われた時、彼の手は「元どおりになった」のです。「元どおりになった」という言葉「復元する」。使徒言行録3章23節「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。」
 「万物が新しくなる」ということが「復元する」という言葉です。これは来るべき終末の時をあらわしています。イエスさまは来るべき時に来られる方として「復元を見せて」くださいました。「安息日」はすべてのものが「復元される」ことへのしるしです。わたしたちは主の日、復活されて主イエスさまとの出会いの中で新しくされ続けてまいりましょう。