礼拝メッセージ(2020年9月6日)

『 富んでいる人は不幸? 』  ルカによる福音書 6章:24~26節  林健一 牧師

富んでいる人は不幸?

 「貧しい人々は、幸いである」と言われたイエス様、「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である」と言われているのはなぜでしょうか。24節後半に「あなたがたはもう慰めを受けている」からです。生きるための必要が満たされているがゆえ既に慰めを受けてしまっている、それが不幸だというのです。この「受けている」という言葉は、既に十分に受けており、これ以上はいらない、という意味です。ということはこの人たちは、富んでいることによって、既に慰めを十分に受けており、これ以上の慰めはもういらないと思っているのです。弟子たち、信仰者がそうなってしまったらそれは不幸です。なぜならばそれは、神様からの慰めはいらない、ということだからです。神様に慰めてもらわなくても、自分の持っているもの、財産で十分な慰めがある、安心や平安を得ているのです。それは言い換えれば、自分の持ち物、財産に依り頼んで生きているということです。信仰者がそうなってしまったら、もう信仰を持っている意味がありません。信仰とは、神様を信じるとは、神様にこそ依り頼み、信頼して、神様からの慰めをこそ求めて生きることだからです。その神様からの慰めを求めなくなった信仰者はまことに不幸です。何か災いが起るという意味で不幸なのではなくて、その人の目が神様を見失い、この世のことしか見えなくなっていることが不幸なのです。この世のことしか目に入らなくなる時、私たちはこの世の事柄、例えばお金や地位や名誉などに捕われ、束縛されてその奴隷になってしまいます。そこに、富んでいる者の不幸があるのです。逆に貧しさの中でひたすら神様からの慰めを、守りと導きを求めるところにこそ、この世の事柄からの自由が、束縛からの解放が与えられます。神の国、神様のご支配の下で生きるところに、この世の力からの解放があるのです。貧しい者が幸いであるのはそのためなのです。 

 私たちの人生の目的が神様を求めることでなくこの世の安定や富を求めてはいないでしょうか?そのために神様に祈っていることはないでしょうか?私たちの人生の不幸は貧しさ、乏しさでなく神様ご自身を求めなくなっていくことにあるのです。毎日の生活に困難があったとしても神様を求めていく毎日であるなら私たちの人生は幸いなものとなっていくのです。